中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(31)

西区九条での間借り生活は半年ほどだった。間借りしていた家のⅠ階は喫茶店
プロレスの日や大相撲のある日は黒山の人だかりだった。
私は、東京にいた時(昭和29年)にすでに力道山のプロレス中継を観ていたが、大阪では
1年遅れてテレビ放送が始まっていたが未だ普及しておらず、喫茶店などでテレビを楽しむ
のが普通だった。
 
浜寺私営業者から豊中営業所に転勤することになり、それを機に豊中市石橋に住まいを
決めた。新築のアパートだったのできれいだったが、当時のこととて、やはりトイレは共通
だった。台所とは言えないまでも、流しやガス台は部屋の中にあり、小さな押し入れもついて
いて、新居と言えた。
 
家内は、大阪の伊藤衣服研究所で学び、終えてからは研究生として研究所の中で、
仕事を続け、そのご、御堂筋の近くにある洋装店に勤めていた。今でいうアメリカ村
ある辺りである。結婚してからもそこで働いていたが、石橋に引っ越してきてからは、
近くの洋装店から頼まれたものを縫っていた。
私の収入もそこそこあり、家内も収入を得ていたので、順風満帆の日々におもえたが、
ある日から突然身体がだるく、熱が出て働けなくなった。
石橋に移って半年ぐらい経ったことだと思う。
 
僅かに歩くだけでも汗がびっしょりと言う有様だった。会社には行けない。石橋病院で
点滴をうってもらうだけと言う日々だった。
あっと言う間に金がなくなった。食べるものがなくなった。
なにもない。3日ほどほとんど食べない日が続いた。二人ともひもじくて辛い。
家内が「あそこの魚屋さんに、新聞紙の4つ切り買います」って書いてあったと言う。
早速古新聞を取り出してきて、私がそれを4つ切りにした。当時は、魚屋さんでは新聞紙
に包んで売っていたからだ。
 
家内が、それを持って魚屋へ行き、受け取った金で、麦とスジ肉を買ってきた。
それをこつこつと炊く。旨かった、美味だった。こんなうまいもの食ったことがないと
思えるほど感動したものだ。
食べるものがなくなると言うことは、恐ろしいことだ。それだけにありついた時の
喜びも大きい。