中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(41)私を守ってくれたのはだれなのか

第二章 

《飯盛野伝道学校の日々》 

 いよいよ新しい日々が始まった。今後どのように展開していくのかわからぬままに次の朝が来た。

 朝六時に起き、岩塚先生と生徒三人で近くの飯盛山に駆け上る。山頂まで半時間はかかり、着いた頃には息が上がってしまうほどだ。山頂は小さな公園程度の広さがあり早朝にはほかの人の気配もみえない。この場所で、先生から短いが心にしみるお話があり、お祈りをして下山する。 

キリスト教のお祈りは、ほとんど感謝と希望などをだれかが言い、最後に全員がアーメンと言って終わる。アーメンとは、そのとおりですという意味なのだ。毎日かわるがわる祈りの言葉を唱えるのだが、上手に言える人もあれば下手な人もある。文学性を問われるような気がする。

アーメンとは、カトリックプロテスタントキリスト教が使うものかと最近まで思っていたが、イスラム教の映画を見ているとイスラムでもよく使っているのだった。もともと、ユダヤ教のバージョンアップがキリスト教であり、キリスト教のバージョンアップがイスラム教であるのだから、不思議ではないのだとおもった。

この三つの宗教が興った地域性を考えると、いろいろと理解が進むが、それなら、どうして血で血を洗う争いになるのかが解せない。どの宗教もなぜ争うのか、わたしには解せないでいる。仏教にはそういうことがないのかと思っていたが、やはり血で血を洗うような争いがある。宗教間の争いほど酷いものはないと言っていいかもしれない。私が結局、どの宗教にも属さなくなったのはそのためだった。

山からもどってからは、先生のご家族と一緒に朝食をいただき、生徒三人で畑に行って作業をする。作業内容は、季節によって植えるものが違うからいろいろだと先輩が簡潔に言う。

 一番年上の先輩は梯(かけはし)さんで33歳、次いで小泉さんは25歳、そして僕は19歳になる手前だった。畑作業は水田の作業と違って土が軽くてやりやすい。畑作業以外では、畑で作られた大量のゴマから油を搾る作業だった。胡麻を機械に入れ一日回してもゴマ油は500ミリリットルもとれない。これじゃ、ゴマ油が高価なはずだと思った。もちろん、ちゃちな機械だったので効率が悪かったのかもしれないのだが。

 三時の休み時間には、畑のすぐそばにある宣教師館によくお邪魔した。そこには驚くばかりの製品があった。大きな自動洗濯機、大型電気冷蔵庫はまだ日本に普及していない頃で見たこともない立派なものだった。なんだか、戦争に負けてもしようがない格差を見せつけられたような気がした。五段ギア付きの自転車も初めてだった。

大きな八人乗りのジープ(ホロ付ではなくボックス型)があり、毎週水曜日の夜には、牧師と宣教師と生徒三人の五人がジープに乗って、農村のあちこちに伝道集会に出かけて行った。ジープの灯火を上向き、下向きに切り替えるのは、アクセルの隣にあるボタンを踏んで行うなど、操縦の基本を宣教師は運転しながら教えてくれる。車のギアチェンジと自転車のギアチェンジも同じ要領で行うのだとも教わった。日常的に車に乗れる時代ではなかったので、水曜の夜は楽しみでもあった。

水曜と、日曜日以外の夜は「聖書研究講座」であった。岩塚先生の静かだが深い話に耳を傾ける。改めて淡路島での伝道集会のことを考えた。兵庫県では農村が多い地域にも日本キリスト教団の教会が多く存在する。しかし、淡路島には一つしかないのはなぜかと。

気になって先日調べてみた。

1950年当時に220,6000人の人口だった淡路島が、現在では120,2000人しかいない。若い人の人口激変で伝道もままならなかったのだろうかと思える。兵庫県は地形の関係で京都文化が深く沁み込んでいる。京都文化の影響を受けた地域のほうが教会数も多いように思えるのだ。言い換えるなら文化度が違うのだ。

岩塚先生が、長らく農村への伝道に力を入れておられ、その地域には信徒が育ったのだろう。そして教会が生まれていったのではと推測した。

毎週農村に伝道に出かける熱心な牧師がいる一方、淡路島の牧師はそのような活動は一切していなかった。とにかく岩塚牧師は熱心だった。もっと農村にという思いが先生にはある。だから私たちを育てようとしているのだろうとも思った。

岩塚先生が僕につけたあだ名がある。「丼三杯男」だった。ずいぶん遠慮なく食べさせていただいたものだ。感謝の半年間だった。

冬が過ぎ、春が近かった。そういう時期に、日曜日に教会に通い始めて間もないという一人の女性と親しくなった。藤木さんと言った。近くにある北条高校の二年生だと言った。もう一人、藤木さんと同じ北条町に住む小林君とも、とても親しくなった。彼は僕と同い年だった。

日曜の礼拝のあとの午後は、三人で過ごすようになった。場所は教会のてっぺんにある塔の中だった。五人ほど座れる空間があって、大きな声でしゃべっていてもよかった。何を話し合ったのか、さっぱり思い出せないが、たぶん聖書に記されている文言についての意見交換だったと思う。ふたりは、ぼくが伝道学校の生徒なので、一目置いてくれていたので、ぼく中心の会話だったのではないかと思う。

ぼくは藤木さんにたいして、生まれて初めて恋心を抱いていた。彼女もそのようだった。一度家に来てくださいと招かれて伺い、三度ほど彼女の家に行ったことがある。

ご両親は早世されていた。おじいさんは、畳屋さんで玄関を入ったところから畳製造の作業場だった。いつも畳の手作業をしていたが、静かに話す人だった。おばあさんは、いつもにこやかに迎えてくれて、もっと遠慮なくなんども来てくださいとおっしゃった。