中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(22)

東北地方の大地震のニュースを観ていて、自分の過去のことなど書いても
意味がないように思われ、しばらく頓挫した。
しかし、これまで読んで下さった方々にも続きを書くべきだし、東北で被災された
方々にも、何らかの役に立つかも知れないので、今後も書き続けることにしたい。
 
20歳の2月、一か月間に亘る大阪住吉公園での野宿生活で身体を悪くし、もう後が
ない状態になって、決別したはずの淡路島の家に帰った。
この家のことを実家と言えない寂しさがある。
終戦時までの法律では、長男である父が相続をし、その長男である私が相続できる
ことになっていた。 そして、「おまえは後継ぎだから」ということで、小学生から農業の
手伝いをさせられてきた。子供にとってはかなりの負担のある作業であり、身体中に
湿疹があり、それが化膿してしている状態での農作業は、今なら大問題になることだろう。
 
しかし、祖父母は、父の末弟に家を継がせる手段に出て、私の高校進学も、そのために
認めず、家から放り出された。だから、もうこの家には帰らない、ここは私の家ではないと
心に決めて家を出たのだった。
その家に戻るということは、かなりの覚悟が要ったが、野垂れ死にするわけにはいかないから
とにかく体力を回復させたいと戻ったと言うわけだ。
そして、苦しい心境の内にたどり着いたが、そこには見知らぬ女性がいた。
父の末弟の嫁さんだった。この伯父が結婚したことも知らなかった。
本来なら後継ぎだったはずの私に、結婚式の知らせもなかったからだ。
戸惑いはしたが、とにかくしばらくは居ることにしようと心に決めた。
 
どうして帰ってきたかという詳しい事情は言わなかった。私が教会に通い始めたころ、
祖母は「キリスト教なんぞに入っていたら、磔けの刑にされるぞ」と、昔からの言い伝えを信じて、
私に注意したものだ。
だから、神学校へ行っていたなどは知らない。身体を悪くしたので、しばらく静養したいと
しか言わなかった。
全く金がなくなって不自由したが、子供のころから「お金が欲しい」と一切言わないことに決めていた。
小学生のころ、美術の時間に画用紙が必要だったが、それを買うお金を下さいと言えなかった。
何度かお金が必要で求めたことがあったが、厳しく断られたことがあり、それ以降は一切、どんなに
必要でも言わなかったものだ。
 
近所の中学生を集めて英語を教えることにした。
誘いに乗って英語を習いに来たのは最初4名だけだったが、やがて6名になった。
私は中学校しか卒業してないが、英語だけは丁稚奉公をしながらでも独学でやっていたし、
神学校では本格的にやったので、中学生に教えるぐらいなら何の問題もなかった。
女学生ばかりだったが、分かりやすいと喜ばれた。
私には、神学校で習った「説教学」が、その後もずいぶん役立っている。
聖書には、難しいことがたくさん書かれている。
その内容を、真理を曲げないで、分かりやすく説くと言うのには、一種の才能を必要とする。
私には、今でもその特技がある。難しいことをやさしく話す、しかし、真理をはずさないという
ことを、20歳から心がけてきた。
中学生に英語を教えても、この特技が役立ったものだ。
 
COMEと言う単語があると、辞書を単純にみれば「来る」とある。詳しく観ればもっと奥の深い
言葉なのだが・・・。「GO」も同じで「行く」だけではない。
「今からあなたの家に行く」・・・と言う場合には「GO」ではなく「COME」を使う。どうして行くのに
COMEなのか・・・。そういう意味を詳しく話すことで、とても喜ばれた。
COMEの意味には「近づく」という意味があるからこうなるのだが、学校では習わない話しに
彼女たちは興味を持ってくれたようだった。
宣教師たち外人との付き合いもあり、生きた英語を身に付けたことも幸いしていた。
 
こんな日が3か月間続いた。
ある日の午後、祖母が手招きする。牛小屋の前で、祖母は言った。
「おまえのことは、姉ちゃん(伯父の嫁さん)には言ってないから、心配している」と。
これを読んでおわかりいただけるだろうか。
私 (武志の存在していること) は、伯父の嫁の実家にも、嫁さんにも言ってない(知らない)
から、お前(後継ぎの権利がある)が突然帰ってきて、驚いているし、心配していると、祖母は
言ったのだった。
もっと分かりやすく言えば、「お前の存在は、この家にはないんだよ」と言うことだ。
 
その言葉を聞いて、私は英語を習いに来ていた中学生たちに「ごめんね」と言い、
脊髄カリエスで身体の不自由だった友達に、「それを質草にして500円貸してくれないか」
と500円を借りた。
そして、その日に淡路島をあとにしたのだった。行くあてなどない。体力はようやく戻りつつあった。
船に乗り、この島とも永遠のお別れと思いながら、大阪を目指した。