中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(38)

正木孝良さんの邸宅に伺った。
当時、町では「たかよしさん」と親しみをこめて呼ばれていた。
 
私は、それまで町で出会った時には目礼をしてきたが、もちろん相手は
私のことなど知るはずもなかった。
「君が武志君か」と話しかけられた。それまでの私の人生では、最も偉い
人に直接話しかけられた瞬間だった。
 
このように書きながら思いだすことがたくさんある。
これまでにも書き忘れたことが多いような気がする。
これから書くことも、正木氏との会話を思い出しているうちに記憶が甦って
きた事柄だ。
 
正木氏は「何年前だったか、君がブラジルに移住しようとしていたことがあるだろう。
その時に君のことを知ったんだよ。今の時分、そんな大きな志を持っている青年
が少ないので記憶していたんだ」 と、話しかけられた。
 
このことを説明しておこう。
ちょうど20歳を過ぎて、神学校を中退し、仕事がなく寒空に1か月間以上も野宿生活
をして体調を崩し、仕方なく淡路島の祖父母の家に戻って、近所の中学生たちに
英語を教えていたころのことだった。
新聞に「コチア産業が農業移民募集」という大きな記事を見た。広告ではない記事だった。
都道府県から選抜して、全国から250名程度の青年をブラジルに送り込むという計画だった。
ブラジル最大の「コチア産業」が主体となって募集活動をしていた。
(57年前のこととて、名称などに多少誤りがあるかもしれない・・・が)
 
私はそれに応募した。
兵庫県庁のすぐ南に、なんとか会館があり、そこで試験と面接が行われた。
兵庫県からの応募者は約200名ほどいた。どんな試験だったかは全く覚えていない。
面接のことも忘れている。
しかし、後日の新聞に大きく合格者が発表され、ラジオ (まだTVはない時代) でも
報道された。合格者ははっきり覚えていないが10名ぐらいだった。
 
後日、船をもじった形のビル(移民センター?)で、移民のための教育を受けた。
ブラジル語の初歩や、あちらに行ってからの心構えなどの研修を3週間か4週間
受けたと記憶している。
ブラジルまでの旅費は、コチア産業が持つ。そのかわり、給料は3年間支給されない。
よって、3年間の衣服など、身の回りのものは各自で購入して、日本から持って行くこと
等の説明を受けた。
 
私の腹は決まっていた。日本で私の居場所はない。だから外国へ移民するすか
生きていく道はないと。
3年間分の身の回り品を購入するには、当時で15万円~20万円ほど必要だった
と記憶しているが、この数字には全く自信がない。
祖母に、私の決心を伝え、合格は容易く出来たものではないから、この機会を
生かしたい。私が日本に居ない方が、この家にとってもいいのではないか、だから
費用を出してくれないかとお願いした。
 
祖母の返事は簡単だった。
そんな金を出せるとおもっているのか・・・と、即座に断られた。
私には、縁切りのつもりで、しれぐらいはしてくれてもという甘えがあったが、貧しい
農家には、現金がないのも事実だった。
その数日後だったかに、以前に書いた「嫁さんに、お前のことは話していない」 と言われた
ものだった。
 
正木氏は、その合格発表のことを覚えてくれていたのだった。
「君に頼みがあるんだ」と言った。
私などに何の頼みが??と思いながら聞く。
「今のままじゃ、農業もだけになる。コメと麦だけに依存していてはだめなんだ、
これからは酪農や養鶏などが求められる時代なんだ。そこで、君にはぜひとも
養鶏をやってもらいたい。養鶏のパイオニアになってほしいのだ。
金は出せないが、餌代は貸してやるから、やらないか。」 と・・。
 
町一番の大物に見込まれ、頼まれ、その気にさせられ、私はつい「やります」と
答えていた。 養鶏に何の知識も経験もないが、やるしかないと。