中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(39)

私の冒険が始まった。
簿記を独学で覚え、経理業をするのには、金は要らない。
頭だけの問題だった。
しかし、養鶏ともなれば金はいる。餌代は貸してくれると言うが、何から
手を付けてよいのやら分からない。まさに、冒険だった。
これから後にも、何度も冒険することになるのだが、これが最初の冒険でもあった。
 
養鶏をやるには広い場所がいる。思い当たる場所もない。
当時、どうやって探したのか、今になるとさっぱり思い出せないが、隣村になる
中田(なかだ)村に、その場所を見つけた。
昔の庄屋さんだった家で、門長屋があり、本家、風呂場、蔵、などがある広大な
家だった。どういう経緯だったか忘れたが、その家を借りることが出来た。
家主は東京浅草で開業医をしている人のようだった。
 
門長屋と本家との間に在る中庭が広いので、そこで養鶏をやろうと言う算段だった。
家を貸して下さった、管理人にはもちろん許可は取ってある。
なにしろ、何十年と住んでいない家である。
家の中も広かった。映画に出てきそうな家であった。さすが庄屋さんとはすごいもの
なのだと感じたものだ。
 
家は借りたが、何をどこから始めるか。妻は、洋裁の仕事があり、生まれたばかりの
子供がいるから、一緒にやるわけにはいかないので、隣村での独身生活が始まった。
経理業の仕事で稼がねばならないから、その仕事をやりながら、養鶏の勉強に明け暮れた。
今では、ケージという金属製の籠を並べ、鶏を1羽づつ入れて飼う。しかし、当時はケージが
未だまだ高価だったので、自分で作ることにした。
旨く説明できないが、鶏を背中合わせに入れられる幅の鶏舎を5棟建てて、その中に
木材の桟で1羽づつの仕切りをし、スノコには糞がくっつきにくいように竹を割って使った。
 
すべてが手作りだった。とりあえず500羽から始めようと思ったので、その分の鶏舎を
作った。もちろん、最初は育雛器と言うものを作った。雛を育てるためのもので、温度調節
のためにサーモスタットを買い求め、自作した。
雛を岐阜県から、最初は100羽購入した。雛を育てるのは難しい。雛を上手に育てないと
沢山卵を産む親鳥にならない。
最初の100羽の内、20羽も死なせてしまった。
1か月も経つと、中雛鶏舎に入れて育てる。次いで成鶏用へと入れ替えていく。
 
順次に雛を育てていかないと、運営がうまくいかないので、育雛から成鶏までの
一貫管理が求められる。
養鶏業が旨く出来れば、他の企業だってできると言われるゆえんでもある。
最初の成鶏が卵を産んだ時の感動は忘れられない。ついにやったという感じだった。
毎日、ゴロゴロと卵が転がってくるようになると、片手間ではやって行けないので、
経理業はやめた。
養鶏業とは、卵の生産業である。卵は綺麗にしなければならない。最近の大型養鶏場
では、洗卵機があるが、私の場合は1個づつ手で磨くようにしてきれいに仕上げていた。
 
子供も大きくなってきたので、家内も養鶏場の方に移り住むことになった。
ようやく養鶏業に目途がつき始めたかに思えた。
その頃になって、毎夜遅く、電報が届くようになった。
「早く家から出ていけ」 という電報が、なぜか深夜を回ってから届くのだ。
わざと深夜を回ってから届くようにしているようだった。
東京の家主からの厭がらせであった。
何度も手紙を書いて継続を懇願していたが、認められないと言う。
東京まで談判に行くことになった。