中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(46)

材木屋さんへの多額の借金を24回の手形払いにしていただいて、
とにもかくにもわが家で住めることになった。昭和37年秋だったから、
私は未だ28歳だった。古い年月日は忘れてしまうものだが、二人目の娘の生まれた年の秋と言うことで、この記憶には間違いない。
1964年10月10日に東京オリンピックが始まる2年前のことだった。
 
雛を入れ、育雛をして中雛とし、成鶏まで育ててやっと収入に結び付く
と言う気の長い、そして生き物だけに気の抜けない事業だった。
餌はメーカー製品の混合飼料を使えば楽なのだが、少しでも経費を
抑えるために、資料材料のばら買いをして、自分で混合する。
そのためには栄養素の計算をしなければならない。
雛と中雛、成鶏とではそれぞれ与えるえさの内容が違うのだ。
特にタンパク質の計算をしっかりしておかないと、上手く育たないし、
鶏をだめにしてしまいかねない。
餌の計算は入念に、効率よく、しかも経費を抑えないといけないと
いう課題があった。
 
鶏の糞と言うのは、極めて臭い。牛や豚のふんなどに較べても
匂いがきつく、糞の処理作業は苦痛でもある。しかし、上手に
処理すれば「鶏糞」というすばらしい肥料として売ることもできる
ので、粗末には扱えない。空気を大量に送りこんで、素早く乾燥
するための大型フアンの導入など、工夫に明け暮れた印象がある。
 
卵の集荷をしながら、1羽づつ産卵のデーターを付ける。やはり
1か月間に、18~20個以上は産んでもらわないと採算が取れない。卵を産まなくなった鶏を沢山抱えると経営に支障をきたすから、
産まなくなった鶏は廃鶏として出荷ン処分することとなる。
洗卵(1個づつ手で洗う)作業は、昼間は忙しいので夜に行う。
 
こうして鶏舎には計画通りの1000羽の成鶏が満たされ、これから
やっと本格的な養鶏経営をという矢先に、またもや思いもよらない
災難が降りかかってきた。人生何が起こるか全く分からないもので
ある。