中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(55)

(今回は、一気に書いたので少し長めです)
 
書き忘れていたことがある。新しい家で3番目の娘が生まれたのだ。
「愛子」と名付けた。台風の日だった。急に産気づき、産婆さんに
連絡をして待つ間に生まれてしまった。誰よりも早く私が愛子に触れ
たのだった。今は塾の経営をしている娘の誕生だった。
 
工場を稼働して1か月が過ぎた。最初の給料を支払わなければ
ならない。ミシン工3名と補助作業1名の給料は、養鶏の方から
やりくりしてしのいだが、1か月間一生懸命にやった仕事からは
1円の収入もないばかりか、失敗の山を築き大関ゴムに材料費を
弁償させられ、重ねての出費となった。
 ここでぜひ書いておかなければならないことがある。動力ミシン
の経験がある女性3人に来てもらったが、絨毯工場ではジグザグミ
シンしか経験がないと言う。動力と言う速さには慣れているだけが
取り柄で経験がないのに等しい。だから彼女たちの経験に頼るわけ
にはいかない。そこで、深夜まで私自身が技術を習得するために必
死に頑張った。と言っても教えてくれる人はいない。ひたすら研究
を重ねながら、そしてどのように動力ミシンというスピードのある
ものをコントロールしながら縫えるかという課題にも取り組んだ。
 
靴と言うのは、直線でが~~~と縫える部分はほとんどない。
場所によっては縫目4つと言うこともある。ミシン針を下げた状態
でターンしなければならない個所も多い。手で針を下げていたので
は遅くなるから、足での操作で1針の上げ下げを自由に操作できな
ければ、早い作業が出来ない。カーブの場所も多い。ミシン工には
流れ作業で仕事をさせるので、ある部分だけ熟練すれば仕事になる
が、教える私は、すべての工程をきっちり把握しておかないと教え
られない。
 仕事を軌道に乗せるためには、何より自分自身がオールマイティー
になっておかなければならないと言う大きな課題があった。これ以上
の失敗を重ねては、損失が増えると言うよりも、納期に間に合わない、
仕事が悪いとなれば、せっかく掴んだ仕事がなくなることは目に見え
ていた。そう言う点では大関ゴムの児玉社長は肝っ玉があった。
未だ工場も持たない私に何かを感じたから託したのだと言われたの
だから、託された私は、その期待にこたえなければならない。
 ようやく仕事が軌道に乗り始めた。1カ月単位で言うならば黒字に
転じてきた。仕事も満足してもらえるように熟達してきた。ミシン工
も補助員も増やした。ミシンは直線縫いが出来るものだけではなく、
ジグザグミシンなど何種かの特殊ミシンも必要だった。
 消耗品としては糸の消費が多かった。毎月の支払は、人件費、糸
代金、ミシン修繕費が主だった。特殊なものを縫っているので、針は
よく折れる、調子が直ぐに悪くなるので調整に来てもらうことが多く、
修繕費が高くなる原因だった。
 養鶏も続けている。多額の借金返済のためにはやめられない。
しかし、工場とは車で20分程度離れているし、朝晩の餌と卵の清掃
、鶏糞処理以外は工場にいる機会が増え、鶏舎管理はおろそかになら
ざるを得ない。鶏舎管理を怠ると、生き物と言うのは、それを敏感に
感じてしまうから、産卵率が落ちてくると言う悪循環があった。しかし、
養鶏業の先が見えている。かなりの資金を投入して5千羽、1万羽
規模にしないとやって行けないということは時勢であった。
何がなんでも縫製業を成功させねばならない極限状態だった。