中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(58)

「またしても、大きな困難が襲う」
 
  その年の年末に引っ越した時は、まだ借入金の入金はなかった。
 それを心配した鉄工所の社長は仮登記名義を自分の会社にしようと
 したので対決となった。「私を見損なわないでほしい。約束を守ら
 ない男だと思いますか」と談判してようやく納得していただけた。
 正月には、お酒を下げて社長が失礼の謝罪に来て下さった。新工場に
 くっつけて住宅部分も軽量鉄骨で建築した。
 この頃に次の娘が生まれ「真理」と名付けた。
 ここまで「恵」「信子」「愛子」とすべて聖書から名付けた。
 なかなか男の子には恵まれなかった。
 それから後のことは、省略してどんどん先へと書き進めることにする。
 
 ジャングルブーツは、あっという間に消えてなくなった。ベトナム
戦争の終結は定かではないが1975年とされているが、ジャングル
ブーツは、多分1967年には生産が止まっていたように記憶して
いる。知らぬ間に、こんな形で戦争に加担していたと思うと心苦しい。
ジャングルブーツの後にはアメリカ向け輸出用の婦人ロングシューズ
などの注文が多くなった。技術的には難しくなったが、生地が薄く
なって扱いやすくなった。
  ミシンの修繕費がバカにならない出費だった。修繕と言うより調整が
 主だったが、なにしろ布とは違いトラブルがア多かったから仕方がない。 ミシン修理を完全にマスターしたのは、新工場に移って1年ぐらい経っ
 た時だった。どんなトラブルでも解決できる自信があった。前にも書い
 たが、動力ミシンの一針だけの上げ下げを足でコントロールするのは
 難しい。手でやっていたのでは仕事がはかどらない。3針だけ縫うな
 どと言うことも簡単にできるようにならなければ仕事師とは言えない。
 そのような仕事の極意までミシン工に教えるために、私が先に習得して
 おかねばならない。
  仕事は、流れ作業で行うことで単純化した。台風で工場が飛ばされた
 町に大衆浴場の閉業したところがあったので、その場所を改造して工場と した。志筑の町にもミシンを5台という小さな規模だが工場を作った。  働くく人が多くいると言うことで、車で40分も掛かる場所にも工場を
 作った。従業員の数は50名を超えていたので、観光バスを借り切って
 天橋立などへの日帰り旅行なども楽しんだものだった。
  順調だった日々にある日突然に苦難が襲いかかる。またかと言う感
 じであった。1971年8月15日、ニクソンショックともドルショ
 ックとも言われる「ショック」が世界を襲った。いろんな職業にもショ
 ック現象が起こったと思われるが、今では人のことは思い出せない。
 ちょうど3日間のお盆休みの最中だった。休みが明けてすぐにショック
 の影響が出始めた。僅か1週間で全く仕事がなくなったのだ。信じられ
 ないことだが事実である。
  それまで、ドルは「金本位制」と言ってドル紙幣には、いつでも
 「金」と交換できると言う約束事があった。金本位制とは、金を通貨
 価値の基準とする制度で、中央銀行が、発行した紙幣と同額の金を常
 時保管し、金と紙幣との兌換を保証するというものだ。それを今後は
 やめると言うのだから、ドルの価値が一挙に下落することになり、世界
 経済の枠組みに大きな変化を与えることになった。貿易に絡む仕事に
 大きな影響が出たと言うわけだ。
  ドル建て契約か円建て契約かによって、その影響は大きく異なるが、
 当時はほとんどがドル建て契約だっただろうから、生産して輸出しても、 入ってくるドルの価値は大きく下落していて大損害となるから、生産が
 中止されたと言うわけである。