中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(45)

新しい「わが家」に引っ越した。25坪の家の内、半分が住処で
後は倉庫代わりにしていた。
しかし、ここからが大変だった。
 
もともと資金のない私に正木さんが「養鶏をやれ」と言ったのが
ことの始まりだった。
餌代は貸してくれると言うが、借りたものは返さねばならない。
養鶏と言うのは、雛を買い入れ、育て、半年以上経ってようやく
卵を生み始める。そして、いつもでも産んではくれない。
鶏の自然な生理から言うと、毛換えと言う時期が訪れる。これが
始まれが3カ月以上も卵を産まなくなる。それを過ぎれば一段と
大きな卵を産む身体になるのだが、何か月間も産まない時期を
抱えると、経営が成り立たなくなる。そこで、年間を同じ日照時間
になるように電灯の光によってホルモン調整をして産卵させ続ける
ような工夫が要るのだ。
 
引っ越した当時は、産卵鶏が300羽ぐらいだったので、家計を
支えるよほどの収入もない。大変なことを始めてしまったものだと
思ったが後の祭り。
 
そう言うある日のこと・・・来るべき日が来てしまった。
材木屋さんが集金に来た。高部さんと言った。高部さんには今回の
注文で初めて出会った人なので、古くからの馴染みではない。
だから遠慮会釈はない。
集金に来た高部さんに「すみません。お金がないんです」と謝った。
いつになったら払えるのかと問い詰める彼に「見込みはありません」
と言ったら、新築の家に土足を上げて「こら!!注文だけして、いつに
なったら払えるかわからんとはなにごとだ!」 と怒鳴られた。
 
しばらく話す内に、彼は言った「これだけのものを、お前一人で建て
たんや。それはえらいもんじゃ。お前だったら払えると思う。
どうや、手形を書いてもらわれへんか」と。
当時は現在と違って、銀行が発行する手形用紙に書くのではなく、
文房具屋さんで売っている手形用紙を使うのが普通だった。
そこで、24回払いと言うことにしていただいて手形を書いた。
当初の計画を大幅に上回る家を建てたために、住宅の柱と梁以外
及び鶏舎には全部新しい材木を使ったので、かなりの金額だった。