中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(37)

「恵」は未熟児で生まれたが、健康児となった。どんどん育っていた。
いまも同じようにどんどん育っている感じだ。
 
仕事にも不満はなかった。順調だった。喜ばれていた。
ひっつだけ気に食わない経験をしたことがある。
ある店の店主が税務署員と「取引」したらしいのだ。
店主が私にも隠していたことがあり、それを税務署員に嗅ぎ付かれた
ので、「袖の下」を渡したと言う。
店主や社長に何度も言ってきたことがある。税務署には隠しても
私には隠し事はしないようにと言うことだった。私に言ってくれていれば、
やりようがあるが、私に隠していて、税務署に見つかるのでは、どうにも
ならないからだ。
よほど、その税務署員を告発しようかと考えたが、店主に迷惑がかかるから
やめた。
そんなある日、祖母がやってきた。同じ町に住んでいるが私のところにには
あまり寄りつかない。これまでの経緯があるからだろう。
祖母が言うには「正木さんが、お前に会いたいと言ってきたので、会いにいくように」
と言うことだった。
正木さんというのは、終戦時まで中原家の地主だった。中原家と言うのは
どこかで書いたが昔は土地持ちであったらしい。3大前に大層な損をして
町のひとたちから「村長さん(損長)」と呼ばれていて、私などは「村長さんとこの孫さんか」
などと呼ばれていたものだった。事情を知らない同級生などからは「おまえとこは、
村長をしていたのか」と言われたものである。
 
お人好しで「大損」をしたと言うことだと、祖父母からは聞かされている。
その後は、小作農になり下がっていた。正木家(大地主)から他を借りて耕し
年貢を納めると言う小作農である。貧乏百姓であった。
戦後の農地解放政策で小作していた田畑を買い上げることが出来るようにjなり
自作農に戻れたと言うわけだ。
 
だから、正木家と言うのは大地主であり、お世話になってきた家でもある。
その上、当時の正木さんは町議会議長と農協組合長をしていて飛ぶ鳥を落とす
勢いのある人だった。次期町長と誰もが思っていた。町一番の陸軍での階級を
持っていたことも学歴も彼をそう言う立場に会お仕上げたのだろう。
陸軍大佐だったと思うが、今でいう一佐である。
現在の自衛隊の一佐には沢山知り合いがいる。10名ぐらいいるだろうか。
やはり一佐にはなかなかなれないものらしい。
 
私がどこに住んでいるか分からないので、祖母に「孫に家に来るよう伝えてくれ」
と伝言があったらしい。
町きっての切れ者と言われ、畏敬されている人から私にお呼びがかかるとは、
どういうことだろう??と思いながらも、夜に正木家を訪れた。
街のど真ん中にある大きな屋敷であった。さすが大地主と言う感じだった。