中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(36)

初めての子供をあっという間に亡くしたことで、私は深い傷を負った。
脳性マヒ・・・今後どうなるのだろう? そんな不安が毎日あった。
私の人生はどうなっていくのだろうという不安もあった。
「いずみ」はそんな親の気持ちを察して逝ってしまったのかと思い苦しんだ。
わずか1年半の短い人生だった。
 
私の仕事は、努力の甲斐あって、山内先生に認められ重宝されるようになった。
いずみが亡くなる半年前には「君は独立しなさい。私の得意先をお祝に一軒付けて
上げるから」 と言って下さった。
小学校の校門の前に古くからの菓子屋さんがある。学校の帰りに、その店の前で
飴の作り方などをじっと見つめていたものだった。今はなくなっていると思うが
中出さんと言った。この店の1か月間の帳簿管理費は500円だった。
 
それからあとは、宣伝もしないのに顧客が増えていった。
洋服店、ふとん店、写真館、洋菓子店、雑貨店、木材会社、印刷会社、自転車店
バイク販売店、ありとあらゆる業種があった。多い時には30の店舗や会社の
帳簿管理をしていた。帳簿管理だけではなく、税務処理もしていたので、税務署から
調査に来た時には立ち合っていた。税理士のような仕事内容なので、いまなら税理士法
違反になってしまうだろう。
 
住んでいる「志筑(しづき)町」だけでなく、島内のあちこちから依頼があった。
「中原先生」の評判は良かった。若いが頼りがいがあると言われていた。
ずいぶん無理もされられた。税務署が1週間後に来るので、なんとかしてくれという
依頼だ。伝票も書いていなければ何もない。なにもない所から伝票を書き、帳簿を
作り決算書を作りだす。
1週間の徹夜作業でまとめあげたものだ。
このような経験が、その後に事業を起こす時の力となった。
いろんな職種を経験したこともよかった。
どんな職種にも、共通点があることを学んだからだった。
 
決算が出来て、税務書類が書けて、税務署員と駆け引きできるようになれば
一人前と言える。独学でここまでやれたので満足ではあった。
いずみが亡くなった2か月後に次の子が妊娠していることを知らされた。
初めての子供をあっという間に亡くしたことで、私は深い傷を負った。
脳性マヒ・・・今後どうなるのだろう? そんな不安が毎日あった。
私の人生はどうなっていくのだろうという不安もあった。
「いずみ」はそんな親の気持ちを察して逝ってしまったのかと思い苦しんだ。
わずか1年半の短い人生だった。
 
私の仕事は、努力の甲斐あって、山内先生に認められ重宝されるようになった。
いずみが亡くなる半年前には「君は独立しなさい。私の得意先をお祝に一軒付けて
上げるから」 と言って下さった。
小学校の校門の前に古くからの菓子屋さんがある。学校の帰りに、その店の前で
飴の作り方などをじっと見つめていたものだった。今はなくなっていると思うが
中出さんと言った。この店の1か月間の帳簿管理費は500円だった。
 
それからあとは、宣伝もしないのに顧客が増えていった。
洋服店、ふとん店、写真館、洋菓子店、雑貨店、木材会社、印刷会社、自転車店
バイク販売店、ありとあらゆる業種があった。多い時には30の店舗や会社の
帳簿管理をしていた。帳簿管理だけではなく、税務処理もしていたので、税務署から
調査に来た時には立ち合っていた。税理士のような仕事内容なので、いまなら税理士法
違反になってしまうだろう。
 
住んでいる「志筑(しづき)町」だけでなく、島内のあちこちから依頼があった。
「中原先生」の評判は良かった。若いが頼りがいがあると言われていた。
ずいぶん無理もされられた。税務署が1週間後に来るので、なんとかしてくれという
依頼だ。伝票も書いていなければ何もない。なにもない所から伝票を書き、帳簿を
作り決算書を作りだす。
1週間の徹夜作業でまとめあげたものだ。
このような経験が、その後に事業を起こす時の力となった。
いろんな職種を経験したこともよかった。
どんな職種にも、共通点があることを学んだからだった。
 
決算が出来て、税務書類が書けて、税務署員と駆け引きできるようになれば
一人前と言える。独学でここまでやれたので満足ではあった。
いずみが亡くなった2か月後に次の子が妊娠していることを知らされた。
初めての子供をあっという間に亡くしたことで、私は深い傷を負った。
脳性マヒ・・・今後どうなるのだろう? そんな不安が毎日あった。
私の人生はどうなっていくのだろうという不安もあった。
「いずみ」はそんな親の気持ちを察して逝ってしまったのかと思い苦しんだ。
わずか1年半の短い人生だった。
 
私の仕事は、努力の甲斐あって、山内先生に認められ重宝されるようになった。
いずみが亡くなる半年前には「君は独立しなさい。私の得意先をお祝に一軒付けて
上げるから」 と言って下さった。
小学校の校門の前に古くからの菓子屋さんがある。学校の帰りに、その店の前で
飴の作り方などをじっと見つめていたものだった。今はなくなっていると思うが
中出さんと言った。この店の1か月間の帳簿管理費は500円だった。
 
それからあとは、宣伝もしないのに顧客が増えていった。
洋服店、ふとん店、写真館、洋菓子店、雑貨店、木材会社、印刷会社、自転車店
バイク販売店、ありとあらゆる業種があった。多い時には30の店舗や会社の
帳簿管理をしていた。帳簿管理だけではなく、税務処理もしていたので、税務署から
調査に来た時には立ち合っていた。税理士のような仕事内容なので、いまなら税理士法
違反になってしまうだろう。
 
住んでいる「志筑(しづき)町」だけでなく、島内のあちこちから依頼があった。
「中原先生」の評判は良かった。若いが頼りがいがあると言われていた。
ずいぶん無理もされられた。税務署が1週間後に来るので、なんとかしてくれという
依頼だ。伝票も書いていなければ何もない。なにもない所から伝票を書き、帳簿を
作り決算書を作りだす。
1週間の徹夜作業でまとめあげたものだ。
このような経験が、その後に事業を起こす時の力となった。
いろんな職種を経験したこともよかった。
どんな職種にも、共通点があることを学んだからだった。
 
決算が出来て、税務書類が書けて、税務署員と駆け引きできるようになれば
一人前と言える。独学でここまでやれたので満足ではあった。
いずみが亡くなった2か月後に次の子が妊娠していることを知らされた。
予定日は翌年2月だったが、この子の場合も8カ月での早産だった。昭和3412月だった。この子は未熟児で生まれたがすくすくと育ち、健康優良児になった。今もその体型を保っている現在52歳になる娘だ。夕方から教会で卓球をしていて、産気づいたとの連絡があり、帰宅してお湯を沸かし忙しい出産だった。
若いころ世話になった・・・(毎週、声かけをして下さった・・)島の内教会
牧師夫人の名前をいただいて「恵」と命名した。私の25歳の時だった。