中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

82年間生きて、感じること(19)教師の思い出 1

 この歳になると、古いことはだんだん記憶が薄れてしまう。
 小学生のころは、入学と同時に戦争が始まったので、教科書も
 変わってしまっていた。
 「小学校」から「国民学校」に変わるという激動の時代だった。
 軍隊帰りの若い教師で、わずかのことで苛立ち、一クラスの
 生徒を校庭に並ばせ、全員の背中を薪で殴って歩く「滝・・」と
 いうひど「奴」もいた。
 終戦になってからは、何を教えてよいのか教師にもわからなかった
 ようで、本を朗読してくださった教師もいたが、あとで思うに
 私が「本とは面白いものだ」と初めて気が付いた瞬間でもあった。
 6年生の時の担任は梶原先生で、きびしいとみんなから恐れられていた
 ようだが、私はやさしい先生だと感じていた。
 中学生になってから印象に残っているのは、泉先生と東郷先生。
 東郷先生が3年生までいてくださっていれば、私の英語力が格段に
 伸びたはずだった。1年生のころ「中原、週に一度でいいから家に
 勉強に来ないか」と言ってくださり、週一で夜に教えていただいて
 いたが、いま思うに祖母は謝礼などしていなかったのではないかと
 思う。授業で「オールブラックジョー」を英語で教えてくださったが、
 今でも歌うことができる。授業の上手な先生だったが、2年生からの
 英語教師はひどかった。あの時代・・仕方ないか。
  泉先生は3年の時の担任であり数学の教師だった。
 百姓仕事のために長期に休むこともあり、数学の基本が遅れて、
 教科の中で一番不得手だった。
 ある試験の時、どうせわからないや・・と思って、白紙答案を提出した。
 放課後残るようにと先生から言われた。
 「あのな中原、なんで白紙なんや、考えたら少しは書けたやろう。
  白紙で出すというのはな、絶対にしたらあかんこっちゃ。
  お前は、英語がこれだけできるのに、数学ができんはずがない。
  やったらできる、そう思って、これから励めよ。お前の家庭的事情は
  よくわかっているが、今後は白紙提出というのは、絶対にあかんと
  いうことを覚えとけよ。」 と。
 この教師は、高校生正門の横で、文房具店経営もやっていて、奥さんも
 教師をされていた方だった。「花王石鹸」という渾名のある先生だったが、
 私の一生に影響を与えた一言だった。