中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

人生の岐路のいろいろ ②

 ①で書いた15歳の岐路。私の場合は選ぶ権利もありませんでした。

実は15歳の岐路と言うのは人生では大きな影響を及ぼしますが、選ぶ

ことも出来なかったので岐路と言えるかどうかです。 こどもの時から

ほとんど一緒に生活したこともなかった父は、終戦後シベリアに送られて

厳寒の中での強制労働をさせられ、最終便に近い昭和24年の夏に舞鶴

港に帰国しましたが、自宅に帰ることなく、その夜に舞鶴国立病院で

野球ボール大に大きくなった「胃がん」摘出手術を受けたのでした。

 それから、大阪の国立病院に転院、自宅に戻ったのは亡くなる1か月

前でした。新制高校が3年目・・と言うことは新制中学から新制高校

に初めて生徒を迎える年と言うことになります。はっきり言って、だれ

でも入学できるほどでした。だが、父の死が間近に迫っていることもあり、

祖母は「高校には行かせない」と明言して、住み込みで働きに行けと言った。

中学校の担任の親戚筋の薬局兼薬品問屋に住み込みで働いた。 わたしの

15歳だった。岐路ではなく、進まねばならない道だった。この後、辛い目と

幸運とがあったのに、岐路をあやまって辛い道を選んでしまったこともある。

しかし、辛い道を選択したことが、その後の私を作り上げることになったの

かも知れないと思っている。

  18歳の時、母と再会した。二歳半の時に、大阪の映画館で私を捨てた

母だったが、ずっと探していた。母に恨みなど一切なかった。ただただ母親

という人に会いたかった。それらのいきさつは電子出版の「人生いろいろ

あって」(3部作)の中で詳しく書いたので省いておこう。

 親子の対面は映画のようにいかなかった。涙のご対面にはならなかった。

今考えると、母は43歳ぐらいだったのだろう。もちろん再婚していて、

相手はとても優しくいい人だった。伝手で日本輸送機という大会社に入る

ことが出来た。日本輸送機は、当時から一部上場会社であった。しかし、

私は1ヶ月で退社した。こういう大会社で部品のように使われるだろう

人生になりたくはなかった。これは大きな決断だった。親にしてみれば、

大会社に入ってくれて「これで安心」と思っただろう。会社を辞めると

同時にわたしは母親の元を離れる決断をした。独自で自分の道を選ぼう

と思ったのだった。その直後に賀川豊彦先生との運命の出会いがあった。