中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(39)私を守ってくれたのはだれなのか

   <琵琶湖で遭難しそうになる>

 僕はじっとしているのには慣れていないから、町に出てあちこち歩いているうちに、電機店に立ち寄り、店の息子の立命館大学生と知り合いになった。彼がヨットに乗せてやろうかと誘ってくれ、琵琶湖のほとりの大津市まで行ってヨットに乗った。

お天気の良い日でとても快適だった。琵琶湖にはたくさんのヨットが風をふくんで快走していた。

ところが、突然に思いもよらぬ風が吹いてきて、周囲にいた多くのヨットがバタバタと倒れていくではないか。ヨットの多くは各大学のヨット部が練習しているのだという。

彼もヨット部に所属しており二回生だと知った。彼は大きな声で「俺に任せろ、大丈夫だから、俺の言うとおりに俊敏に動け」と怒鳴るように言う。

右へ倒れろ!左だ!と、彼の指示どおりに私は艇の左右に身体を投げ出す。帆を張っていたヨットで、まともに走っている艇がほとんどいない状態の中で、彼の指示と操縦が的確だったのだろう、無事に港に帰り着いた。怖かった、泳ぎには自信がないだけに、もうだめかと思ったものだ。

大学生と出会ったのも初めてだし、しゃべったのもはじめてであるし、こういう経験をしたのも初めてだったので、「尊敬してしまいます」と、思わず言っていた。

かれは、神足にある電機ショップの息子さんで、たまたまその店を訪れて知り合ったのだった。

『琵琶湖には比叡山の影響で、ときたま予測できない山風が吹くんだよ。たまたま今日がそれだった。君を死なせないですんで、俺もほっとしているよ』

と笑っていた。

大学生か、教養があるのだな。やっぱり教養が一番だな。自分もなんとかしなくてはと、あせる気持ちが頭をもたげてきた。

時々は電機店を訪れて彼の話を聞くのが楽しみだったが、かれも社会人生活を送った私の話に興味を持って聴いてくれ、仲良しという付き合いになっていた。

  十一月半ばに神足に来て、あっという間に三月になっていた。気持ちの焦りばかりが先行して目的が持てないでいた。

神戸の祖父の家で約束したはずだった高校進学の話は忘れられたように感じていた。

そんなある日のこと、木村さんから大事な話があると呼ばれた。

『二人で相談したんだ。おまえが四月に高校に入っても四年遅れだろう。年下の生徒と一緒に勉強できると思うかい。それに、高校を出ても、私たちには大学に行かせてやるような甲斐性がないのだよ。それでね、あちこちの、つてを頼ってお前の就職先を探していたのだがね、すごいところが見つかった。入社テストはないが面接がある。来週に面接に行って来い。株式一部上場会社で、電気機関車を専門に製造している(日本輸送機)というトンでもないほど大きな会社だよ』と。

何と返事をしてよいかわからなかったが、木村さんが気にかけていてくださったことがよく理解できたので、『はい』と答えた。

  神足駅の南側全部が日本輸送機の敷地かと思えるほどで、以前から知ってはいたが、自分とは何の関係もない大会社のように見ていた。

翌週に会社に行き、人事部で面接を受けた。もちろん履歴書も添えて提出した。私など縁のない会社だと最初から思っていた。

三日後に会社から連絡があり、採用すると返事が来たという。嘘だろうというほどおどろいたが、大会社の一員になるのかとうれしくもあった。

 翌日から、働きに行った。十八歳と五か月だった。

担当は部品管理部門だった。とにかく会社が大きすぎてびっくりすることが多い。電気機関車を製造しているので、会社内にもレールがあちこちに敷かれている。

部品管理部門の広くて高い建物に度肝を抜かれた。これほど広い中で、どういう部品がどのように管理されているのか、見定めるまでに相当の時間がかかりそうだなとおもえた。これまでの人生で、一度も見たこともない環境に身を置いて戸惑うばかりだった。

とにかく、言われるままに動くほかなく、自分の知恵を発揮できる機会もない日々の中でがんばっていた。

  神足に来てからの五か月間に、ある人が奥山ショックと言う活動を行っていたのだった。木村さんから(生長の家入門)を勧められたので、私はキリスト教会へ行っていましたという話をしたところ、それなら阪急向日町の駅の近くに教会があるよと教えてくれた。

それから、毎日曜日に教会に足を運ぶようになっていた。森安牧師に神足に信徒はいないのですかと質問したところ、駅前に奈良さんという方がいると聞き及び、訪れたのがきっかけとなり、奈良さんの呼びかけで、彼のお宅で毎週、聖書研究会を行うことになった。

八人が集まり研究会で語りあい、日曜の夜には向日町教会の礼拝に参加したあと、夜道を歩いて神足まで賛美歌を歌いながら戻ってくるというとても楽しい時を過ごした。車も通らない、人も歩いていない道を一時間ほど楽しく歩きながら賛美歌の「山路超えて」をうたっていると恍惚としたものだ。

 『こんなこと、奥山君が来なければ起こらなかったことだよなー。奥山君には、何かそういう魅力があるのだろうな』と口々にほめたたえてくれたが、だれもがみんなで集まれる機会を待っていたのだろうなとおもえた。みんなそれぞれ会社の中核を担う人たちだった。

 

 《 母が混乱している? 》

二月ごろのある日に母が、ちょっと一緒に来てという。珍しいことだ。これまで二人で出かけることなど一度もなかった。母は木村さんに気遣いして、母子二人の外出を控えていたのだろうと思っていた。

黙ってついていくと、ちょうど奈良さんのお宅の向かいあたりの二階へと上がっていった。

仰々しい神棚がある。ここはなに??と一瞬いぶかった。説明なしに連れてこられたのだから訳が分からない。

異様ないでたちの老婆が現れて母と何かやりとりをしている。その女が祈祷を始めた。しばらくすると、母が立ち上がり狂ったように踊り始めた。まるで、何かに憑依したかのようになった。

私は馬鹿らしくなった。何のために今日ここに連れてきたのかわからない。私のお祓いのつもりだろうかとおもうが、あまりにも幼稚すぎるではないか。

当時の母は、私が突然の出現したことに動転し、正気を失っていたのかもしれない。

  母の名誉のために書き添えると、その後も日本舞踊の弟子は増え続け、年に一度の発表会は、長岡八幡宮の池のほとりにある有名な「錦水亭」を借り切っての盛大なものだった。

 また、当時はまだ新興宗教と言われていた創価学会で、後に巨大宗教集団となった学会の、地域の婦人部長も務め、草創期功労者の表彰をうけるほど活躍したのだから立派なものだ。

それだけに、あの頃の母の迷走は私のせいであったのだろうと思うほかない。