中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(36)私を守ってくれたのはだれなのか

 《母と再会する》

 伯父が推定していた時間よりかなり遅れ、十一時を過ぎて母親たちが入ってきた。心のどこかで想像していた涙のご対面というような場面は訪れなかった。どちらも初対面という感じだった。

 最初に「あの写真の人とは違う」と思った。ずっと大切に持ち続けていた写真。この家で「赤い靴」を歌ってくれた人の写真と違うと感じた。

母にしても、息子がまだ二歳半だったころに別れたのだから、あまりにも突然に、十八歳に育った男の子が目の前に現れたのだから、驚きと不信感が混じったのかもと思う。

本当に自分の子供だろうかと訝ったのかもしれない。

 祖父母と伯父夫婦は、これまでの話のやり取りで信じてくれているが、母としては驚きのほうが勝っていたのではないだろうかとおもう。

それに再婚相手への気遣いもあったのだろう。

 とりあえず、母のほうから「そのご」の説明があった。

父と別れてから、なんども父が訪ねてきて、戻ってきてくれと嘆願したこと。

でも、あの酒癖の悪さには、中国での厳しい戦争の影響を受けていて、酒を飲む前と、酒を飲んでからの変わりようは異常であり、治るとは思えなかったので戻らなかった。どれほど酒癖が悪かったかは、奥山家の人も知っているだろうと。

父に預けておいた離婚届も出しておらず、私は宙に浮いた感じのままだったが、父の方から、再婚するからと昭和15年に離婚届を出してくれたという。

その後に、ここにいる木村さんと結婚したのよ。木村さんは、子供の時からの遊び友達で、お前がここに何度か来た時も、遊んでもらったことがあるのよ。

離婚したことを知った木村さんが、僕と結婚してくれないかと言ってくれて、結婚し、最初は、葺合区(現在の中央区)の熊内町に住んでいた。

以前からの知り合いの「石榑(いしくれ)」という人が、京都に近い「神足(こうたり)駅前で、釣り竿製作の大きな工場を持っていて、是非にと誘われて、神足に行き、いまは工場長をやっている。

 わたしは、戦後の食糧難時代に、子供のころから習っていた生け花、日本舞踊などを近所の子供に教えて、とにかく日々を食いつないでいたのだけど、現在のところに行ってからは暮らしが楽になった。

神足(こうたり)に来てから、自分も偉い師匠について習いに行き、次から次へと高い資格を取って、いまでは日本舞踊(花柳流)三味線、小唄、端唄などを教えていて、たくさんの弟子を持っているのだよ。資格というのはいろいろあって、よく言われる「免許皆伝」なんて言うのは序の口なのよね。また詳しく話すけどね。

そんな話はべつとして、まあ立派に育ったね。まだ詳しいはなしは聞いてないけど、育ててくれた人に感謝しなきゃと、つくづくおもうよ。私が育てていたら、こんな立派に育てられなかったと思うと、母が言った。

 (赤ちゃんが死んでも気が付かなった話)

 ここにいるみんなも知っている話だけど、木村さんと私には子供がいないからね、まだ神戸にいたとき、生まれて半年の赤ちゃんを養子にもらったの。

三か月後に、赤ん坊を背負って街を歩いていたら、後ろから来た人が

『もしもし、赤ちゃんの様子が変ですよ』と声をかけてくれて、背負っていた赤ちゃんを抱っこしたら、赤ちゃんはもう死んでいたのよ。

赤ちゃんの体調が悪かったことにも気がつかなかった。熱が高かったことにも気づかず赤ん坊を死なせてしまった。

『私は子育てをすることもできないし、花を植えてもすぐに枯らす。猫や犬を飼っても、みんな死んでしまう。花に水をやり、犬にもちゃんと餌を与えているのにね。自分では気を付けているつもりなのに、これは祟りかなとおもって、拝み屋さんにも行ったけど』と、自分の不甲斐なさを嘆きながら

『だから、こんなに立派に育っている姿を見たら、よくもここまで、すくすくと育ててくださったとおもう』と、自分が育てなくてよかったという。

言い逃れでもあり、本心でもあったのだろう。

 木村さんは静かな人だった。酒を飲んでも穏やかだという。物言いも含蓄があって、工場長をしている人らしい風情が漂っていた。

 母の印象はといえば、僕がこれまでにあまりにも多くを求めすぎていたゆえに、ややがっかりしたし、もらった赤ちゃんが死んでも気づかなかったという話に、それじゃ父と上手くいかなったのも無理ないなと、わかるような気がした。父の酒癖も悪いが母のうかつさもあったのだろうとおもえた。