中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(17)

東京日野の神学校の神学校での体験は、私の人生の中での1ページに
過ぎないが、大きなインパクトを受けたものだった。
巨大な学校敷地のほとんどは、農場であった。
敷地の周囲はアカシア林で囲まれていた。
アカシア林に寄り添うように学生寮が建てられていて、学生寮と遠く向かい合うように
校舎があった。
この辺りは、関東ローム層という火山灰でできた土壌で畑には向いているが水耕栽培
出来ない。
 
農場には、資料用のトウモロコシが中心で、陸稲も栽培されていた。
学生たちは、午前中に授業を受け、昼食後は割り当てられた作業のために農場に出向く。
そのため授業開始時間が早く、午前中にみっちり4時間の授業が組まれていた。
授業内容は、新旧聖書学、説教学、神学のほかキリスト教歴史学、英語、国語、社会学
そして農学まであった。
英語のほか、聖書の原典を正しく理解するためにヘブライ語も教えられた。
午後の農作業だけではなく、当番で牛舎当番もあった。
牛舎当番では、あさ4時に起き、お湯を沸かし牛のお尻をきれいに拭き、乳搾りをする。
今と違って、乳搾りはすべて手作業である。今でも、乳搾りに大切な指の使い方が身について
いるが、これはなかなか大変な作業である。
乳絞りが終わると、牛乳を濾したあと温めて消毒し、瓶に詰める。
びん詰めが終わると自転車で町まで行って配達をするのだ。牛乳配達と言うやつである。
朝早くには、ローム層の土に霜柱が立っていた。歩くとザックザックと音がする。冬の牛舎当番
は辛い作業だった。
 
ピアノ練習も大変だった。ピアノは学校に一台しかなく、使わせてもらえない。
オルガンは4台あったが、学生が競うように練習するので、なかなか練習の機会が取れない。
みんな、早朝に起きて練習するようになった。そうしないと土曜日午後にあるピアノレッスンに
ついていけないからだった。ピアノ教師は厳しい女性だった。一人僅か15分の間に、決められた
楽譜をちゃんと弾けないと認めてもらえずいつまでも同じところから抜け出せない。だから、誰もが
懸命にオルガンで練習したものだった。
記憶をたどると、いろんなことがあった。
 
その一つは、私たちの教授が今も続く有名大学の「国際基督教大学」のテニスコーチでも
あった。教授の勧めでテニスを始めたものだ。当時テニスと言えば日本では軟式テニス
ことだったが、この外人教授は軟式テニスなんてテニスじゃない。ちゃんと硬式テニスをやる
べきだと言って指導を受けた。以後ずっとテニスフアンであり続けている。
 
もう一つの強烈な思いでは、いつも英語の個人レッスンと引き換えに洗車のアルバイトを
させてくれていた外人教授が、ある日私に「この夏の予定はあるか」と問うので、私には帰る場所が
ないので予定はありませんと答えると「それじゃ、私の別荘でアルバイトをしないか」と誘われた。
長野県にある、乙女の湖とも言われる野尻湖の東向き斜面にある別荘群の中の一つに教授の
家族がバカンスを楽しんでいた。
今では開発されて近隣まで広がっているものと想像するが、当時(昭和29年)は、東向き斜面
にだけ別荘群が広がっていて、宣教師などの外人だった。当時3軒隣にNHKラジオの英語講座の
日本人講師もいたものだ。ここで1か月間、野尻湖湖畔にある井戸から水を担ぎ上げたり、草抜きが
中心のアルバイトをしていた。外人に囲まれた1か月間は良い経験ともなった。
初めて一つ屋根の下での外人家族との生活で、食生活も初めての経験を味わうことができた。
 
もう一つ貴重な経験があった。
先輩に大野さんというかなり年上の人がいた。社会人の経験を積んでから神学校に入学したらしく
10歳ほど年上だったと思う。彼とは寮の部屋が同じだった。
彼に誘われて、冬休みに彼の実家である隠岐の島に行くことになった。隠岐の島は島前と島後に
分かれていて、島前は4つの島からなっている。中之島という後鳥羽上皇島流しされていた
島で有名である。ここでの約1か月間は、不思議な体験だった。午後5時から10時までしか
電灯は灯らない。あとは、ろうそくかランプでの生活だ。
島前4島を駆け巡って伝道活動を行ったが、新聞紙で人形を作り、紙芝居を作り、幻灯機を使い
楽しい伝道活動であったが、なにより日本海に浮かぶ離れ島は、当時から近代的であった淡路島と
随分違ったものだった。
 
学校の敷地の広さを上手く表現できないので、地図で検索してみるとおおよそ22万5千平方程度
だったようだ。
この学校は昭和35年ぐらいに鶴川の方に移転したと言うが、その後のことは知らない。
検索してみると、規模がとても小さくなって残っているらしいが、名前だけで活動の様子は見られない。
 
当時の学費などはどうなのかと思う人がいるだろう。
もちろん授業料はいる。食費も要るし寮費も必要だ。
農作業をしっかりやれば授業料は免除されると言うことで入学したが、隔離されたような
環境にあっても何かと金は要る。私が3年間働いてためていた金は、当時の丁稚奉公なので
それほどもらっていないから、大した蓄えはない。
大阪の島の内教会員で婦人会の役員をしていた薄さんと言う方がいた。彼女は薄病院の
院長夫人だった。息子さんが私より一つ年下で親しかったと言うこともあり、毎月500円を
送金して下さっていた。息子の薄丈夫さんは、その後大阪大学を卒業し医師になり、住友病院
勤務していた。豚の皮膚を使ってやけとの治療の移植に成功したことで知られている。
そのような、好意に甘えていたが、やはり金銭的に苦しくなり、せっかく入学出来たのに中途退学
をせざるを得なくなってしまった。
なんだかんだと言っても、ここまでは、未だ順調だった。未成年と言うことで世間も大目にみて
くれていたのだろうが、20歳を超えたからには甘くはない。
これから、世の中の厳しさを嫌と言うほど味わうことになるのだ。私の第2のスタートは、ここから始まった
と言うべきかもしれない。