中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(16)

この項を久しぶりに書く。
妻の体調が悪く、自分の過去を振り返る気力がわいてこなかったからだが、
ようやく体調が回復した。
 
さて、19歳の私の話しに戻ろう。
母との再会を果たし、再婚した母たちと同居し、高校進学を夢見ていた私だったが、
高校進学の話は立ち消えになっていた。そして、それを催促することにためらいがあり、
勧められるままに大手の「日本輸送機(株)」に就職することとなった。
大会社に就職して喜んだのは母たちの方で、私には不満しかなかった。中学卒で
大会社に就職してみても先が見えていると言うものだ。僅か3年間の社会経験であっても、
薬局、小間物店、ケース製造など三つの仕事を経験する中で、社会が見えていた(と思って)
からだ。
日本輸送機では、部品管理の仕事についた。巨大な会社であり、敷地も巨大であった。
広い倉庫の中での部品管理は、私の気持ちにも体にもなじまなかった。
当時、キリスト教旋風を当地に巻き起こしていたことはすでに書いたが、私のその働きに
注目してくれたのが、向日町教会の牧師だった。そして牧師から知り合いの牧師へと
話しが伝わったようだった。
兵庫県加西郡北条町(当時)に日本キリスト教団飯盛野教会があり、その教会の岩塚牧師
は、将来性のある伝道師要請に力を入れていた。飯塚先生たちが努力し、日本キリスト教団
働きかけて東京の日野に「農村伝道神学校」を設立させていた。教団には、同じ中央線沿いの
三鷹市に「東京神学大学」があり、エリートコースの牧師養成校でもあった。
「農村伝道神学校」は中央線の「日野」にあった。入学には高校卒資格が要った。
中卒資格しかない私には入学できない。この学校の設立に深く関わった飯塚先生は有能な
牧師養成のために広く人材を求めていたようで、どういういきさつからか知らないが、私に
白羽の矢が立ったと言うわけだ。
飯盛野教会には「伝道学校」が併設されていた。その伝道学校で学ぶことで高卒者として進学
を認めようというシステムだった。
と言うわけで、飯盛野教会にある伝道学校に入ることとなった。なにしろ60年近く昔の話なので
人の名前などほとんど記憶にない。
この伝道学校では、午前中は農場で働き、午後と夜に岩塚先生と宣教師による授業があった。
当時、外人と身近に接する機会など普通はあまりない。宣教師家族と親しく接する機会を持てた
ことは、当時の18歳にとっては特別なことだった。夜には各地での家庭集会に宣教師の運転する
大型ジープに乗って出かけた。まだまだ自動車が大変珍しい頃である。
宣教師は、マッシューズという名前だったと思う。
伝道学校に2年在籍するはずだったが、岩塚先生の計らいで私だけが特別推薦で東京の日野の
親がこうに進学出来ることになった。詳しいきさつは覚えてないし、知らない。
日野の神学校に入学した年に、ストーン先生の話で盛り上がっていたことを鮮明に記憶している。
昭和29年9月に、青函連絡船「洞爺丸」が、台風によって沈没した際に、多くの乗客を救いながら、
自らは沈んでいったストーン先生の話は、当時の新聞をにぎわせたものだが、ストーン先生は
「農村伝道神学校」の教授だったのだ。
こうして書きながら、いろんなことを思い出している。