中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(100)

(100)
ジレンマの日々
 
二月に入り、教室の造作が始まりました。
五十坪の部屋の形がよいのと、窓が多く天井が高いことも幸いでした。
左右の端に教室、中央の部屋をコンピューター室と職員室という設計
にしました。とてもよい教室になったと思います。
電話で問い合わせがあるたびに、あちこちの中学校へ出向いていって
説明をしました。落ちこぼれてしまった生徒のために学校を作ったのに、
中学校の先生や親から発せられる質問や言葉は、いつの場合も厳しい
内容でしたし、私の自尊心などは粉々にされる日々でした。
生徒が十名ほど集まったころ、科学技術学園の大阪分室から呼び出しが
ありました。もちろん、それまでにもたびたび中間報告にうかがって
いたのですが、この時は頭から冷水を浴びたようなショックを受け
ました。「本校の決済が、まだおりていないので、生徒募集をしばらく
見合わせてほしい」というのです。二月の中旬のことで、すでに生徒が
十名集まり、教室の造作も始まっています。これまでに、大阪分室から
建物を、確認のために見にきていただいたこともあり、すべては了解を
得てのスタートだと思っていたのです。
もちろん、今までの生徒募集についても「学校案内」を見せて了解を
取ったうえでのことでした。それなのに、「三月の中旬に校長が東京
から来るので、その時、校長に直接会って頼みなさい。それまでは
決定ではないので、最終的に生徒に迷惑が掛かることがあります」
というのです。
いまさら、ここで何もかもストップしてしまうとは、いったいどういう
ことなのか。私の頭は混乱しました。
分室長も次長もなかなかいい人ですし、人格者でした。この人たちと
ケンカするわけにもいきません。
これが通常の取引なら訴訟ものでしょうが、この二人の偉い先生は、
私の今置かれている苦しい立場など、まったく眼中にないかのように、
平然としていらっしゃるのです。私は、
「いまさら、ここで何もかもストップするわけにはまいりません。
たとえ十人の生徒でも、彼らの進路を保証してやらなければならない
のです。このまま進んでどうしてもダメなときは、本校の通信教育を
預かっているという形でやっていただけませんか」__とお願いしました。
しかし、「現時点では何のお約束もできません」
と言われたのです。
それからの毎日は、ジレンマの日々でした。
一方で生徒募集を・・・という気持ちと、集めた生徒に迷惑をかける
ことにならないか・・・・・
という心配が私の胸をしめつけました。
中学校の先生やご両親の厳しい質問が、早くも現実のものとなってしまっては、説明だって歯切れよくできません。しかし、一方では、教室の造作は着々と進んでいきます。大工さんには、テキパキと指示をしなければならないのです。
十名の生徒とともに、その親たちと面接してきた私には、彼ら生徒たち
の熱い想いと、その親の期待が痛いほど分かっています。生徒や、その
親が、このできたての、いや、まだでき上がってもいない、この学校に
来るまでの数ヵ月間は、苦しみと悲しみの道筋だったのです。
ある生徒の場合は昨年の秋に、また、ある生徒は今年の一月頃に、先生
から、「公立高校は難しいので私学を受験して下さい。しかし、私学も
ちょっと難しいかもしれない」と言われたときから、苦しみが始まって
いるのです。
彼らは、どこかの高校には行けるだろうとたかをくくっていて、自分が
高校へ行けなくなるかもしれないなどとは、考えてもいなかったのです。
彼らは、私の学校に来るまでに三校から四校の高校受験に失敗し、もう
自分の人生に前進はないと思うほどのダメージを受けていました。
そのようなことが、私にも痛いほど伝わっているだけに、私の責任は
より重いものとなっていました。
それなのに、急激な事態の変化に私の苦しみはつのる一方でした。
大阪分室に対しては毎日のように現状報告はしていましたけれど、この
頃になって、大阪分室には新設校を認めるというような権限については、
何一つ与えられていないことも分かってきました。開校に向かっている
のに、厳しい試練が立ちふさがることになりました。