中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(69)私を守ってくれたのはだれなのか

   《初めてTVライトの下で》 

 最初の日にディレクターから

『奥山さんは軽く考えているようですが、ワイドショーの司会というのは、一億円払うから、やらせてくれと頼んでもできるものではないのですよ。気楽に考えないでください』と念を押された。

 軽く考えているのではなく、当初にどっきりカメラ?とおもったものが、このような展開になって、少々驚いていたのだった。

 しかし、本番が終わってプロデューサーとディレクターから

『なかなかいいじゃないですか。ほとんどの素人の方は、このライトの明るさにびびってしまうのですが、落ち着いておられましたよ』とほめられたので、図に乗って

『これまでの43年間の人生がリハーサルだったみたいです』と言ってしまった。

 前夜に、東京から来た入江若葉さんと、バーで深夜まで騒いでいたので意気投合できたのがリラックスできた要因かもしれない。入江若葉さんをご存じない方もいるだろう。彼女の母親は「入江たか子」といって昭和の初めの大女優だった。明治期からの子爵のお嬢さんである入江たか子さんが映画界に入って騒然としたものだった。

娘の入江若葉さんは映画「宮本武蔵」で主演の中村錦之助さんの相手役のお通役で出演し、その後も多くの映画に出演している。

 毎週、入江さんは東京から来られ、番組が終わると、私と一緒に、来週の衣装合わせにスポンサー企業のお店に行って服を選び、そのあと喫茶店で二人で歓談していたのが懐かしい。

 ワイドショーは、二年間続き、その期間はどこに行ってもサインをねだられるほどだったが、番組終了と共にそれもなくなった。はじめから芸能人になるつもりはなかったので、そのことは気にならないが、本職がままならないのがつらかった。

 《他人の子を4人も育てることに》

魔女に、子供が四人もいるとは最初は知らなかった。私と同棲するために彼女は工作していて、一番小さな幼女のことは知らされていた、ほかの子供たちのことは黙っていたので知らなかった。 ある会社の社長の長女として育った彼女は海星短大出身であったがそれまでの人生で見たこともないタイプの人だった。 

会長である私が主催のパーテイーへ同伴している車の中で、いきなり「行かないで!」と騒ぎだし、欠席させられるなど、彼女のわがままに振り回されてKFSのことに責任を持てなくなる事態が重なり、KFS会長を六年半で辞任し、後輩の柿本副会長にバトンタッチをした。46歳の時だった。

  《歌で救われ蘇ったわたし》

 魔女に振り回されて私の拠り所としているさまざまな立場をなくし、今度こそ自分の人生が終わりだなと思い悩んでいた頃に、恵美が「結婚したい人ができた」という報告にやって来た。

相手はどういう人かと訊くと「パパみたいに優しい人」と、うまいことを言う。最初から反対する気はないが、そういわれると、そうか、そうかと言うほかない。

 その日に恵美が口ずさんでいた歌があった。もういっぺん歌ってくれと、なんども歌ってもらっているうちに涙があふれてきた。いったい自分はどうしてこんなに弱気になっているのだ。自分らしくない。もっと強い人間だったはずなのにと、歌を聞いているうちにおもってきた。

 松山千春さんの「大地の中で」という歌だと恵美は言った。

 ♪ 「はてしない大空と広い大地のそのなかで

   いつの日か幸せを 自分の腕でつかむよう

   歩き出そう明日の日に振り返るにはまだわかい

   吹きすさぶ北風に飛ばされぬようとばぬよう

   凍えた両手に息を吹きかけて 

   しばれた体をあたためて

   生きることがつらいとか苦しいだとか言うまえに

   野に育つ花ならば力の限り生きてやれ」

どうしたのだ、もういちど自分を取り戻せ。 歌を聞きながら、「野に育つ花ならば力の限り生きてやれ」と決意した。 あの頃に恵美がきて、あの歌を聞いてなかったら、生きていなかったかもとおもう。 それほどに沈み込んでいた時期だった。

 人はだれでも、わずかのことで溺れてしまうものなのだとおもう。家族心中した二野木さんも、追い詰められ、おぼれて、家族まで道連れにしたのではないだろうか。

そういう時に、歌を聴くだけでも救われることがあるのだと、おもった。

 男女とも更年期というものがある。

更年期は女性のものだと思われているが、そうではない。女性の場合は閉経してホルモンのバランスが崩れるために起こる現象だが、男性の場合には45歳前後に精神的なバランスを崩す人が多いようなのだ。社会的にも微妙な年齢だからだとおもえる。わたしの崩れかけたバランスを、松山千春さんの「大地の中で」が、救ってくれた。恵美が歌ってくれて救われた。

 私は、これまでに多くの人によって育てられてきた。これからは、多くの人のために生きようと突然のようにおもったのだった。

魔女さんは、ある意味では病的だった。気ままが過ぎる。だからご主人とも折り合えなかったのだろう。 わたしは彼女の子供四人を放っておけなくて、いっしょに暮すようになった。 共に暮らし始めた時、長男は六年生、次男は三年生、三男は一年生、娘は五歳だった。それから十年間、周囲から見れば実の親子のように暮らしていた。

自分の子供を育てないで、何をやっているのだという忸怩たる思いで、悩み苦しむことがあったが、いまはそれに耐えて生きようと決めたのだった。

 1981年3月から9月まで「神戸ポートアイランド博覧会」が開催された。

1600万人以上が訪れた博覧会だ。

神戸大丸・宣伝部長の小貫氏から連絡があり、大阪の友人が人材を探している。

できれば、その会社の副社長と一緒に、ポーアイ博の準備を手伝ってやってほしいのだがという電話があったのは、博覧会開催前年で、わたしが46歳の時だった。

博覧会が終わってからは、その会社の子会社である「(株)アートハウス」の専務になった。

ある事情から、神戸兵庫の大手住宅会社の「中西興業」の社長から電話があり、ぜひともうちの専務に迎えたいという。

お呼びがあるときはこんなもので引く手あまたであり、ないときは辛い。まるで芸人みたいなものだなっておもった。

神戸のほうが近いが、大阪にも義理があるので、どちらが私を必要としているか、直接二人の社長で話し合ってもらった。 大阪の本社は大正区なので神戸の北区から通うには遠い。

О社長は俺の乗っているクラウンを君にあげるから来てくれという。神戸の社長は穏やかな人で、跡継ぎがいないのでぜひこちらに譲ってくれと言い、そういう事情なら奥山をあなたの所にお任せしましょうということになった。

それが運命的なことにつながるのだから、人生は面白い。