中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(68)私を守ってくれたのはだれなのか

###  通し№を間違えて公開してしまいました。

(67)を先にお読みくださるようお願いいたします。

 

     《魔女にさらわれた》

  二野木事件にかかわったことで私の人生の歯車が狂い始めたかのように、身動きが取れなくなってしまった。 自殺した家族に暴力団組長が家の明け渡しを強要し、事情を知ったわたしが代理人として組長と戦った。 その間約3か月、自分の仕事もできない中で、頼りにしていた会社から不渡り手形を出され、それに乗じて仕入れ先が強引なやり方で在庫の商品と生地を奪っていった。 知恵を働かせて仕入れ先との問題は一挙に解決したものの、これからのことを思うと目の前が真っ暗だった。

  縫子たちにもやめてもらい、今後のことを考える力さえ抜けて、茫然自失という四字熟語がぴったりの日々となったある日の午後、一人の女性が百本のバラの大きな束を抱えて訪ねてきた。

 半年ほど前に、ゴルフ仲間と一緒に飲みに行ったバーに来ていたお客さんで、その際に挨拶として名刺を渡したことがあった。もちろん、この半年間に私の身に何が起こっていたか彼女は何も知らない。知っていたら来なかっただろうに。

 それにしても百本のバラ束とは派手なことをするものだ。店には誰もいない。閑散としている店の中で、百本のバラも華やかにふる舞うことなくひっそりとテーブルに置かれたままだった。

彼女に誘われるままに、これまで行ったこともない豪勢な場所で夕食を共にし、バーに誘われ、飲みなれない酒を飲まされ、なにかに導かれるように、いつのまにか同棲する仲になってしまった。

 どうしようもない不思議な展開で、なにがなんだか分からないうちに元町の店をたたんで引っ越した。魔女との出会いが、結局は十年間も他人の子供四人を育てる羽目にまでなってしまったのだった。

  《ワイドショーの司会者に》

1977年(昭和52年)4月にサンテレビから引っ越し先に電話があり、「今後の神戸についてお話を伺いたいので時間を作ってほしいと」いうことで、気やすく引き受け、あるホテルのロビーで社員二人とあったのです。

当時、神戸新聞主筆から名指しされた五名が集まって、主筆を中心に神戸のファッション都市化研究会のメンバーとなっていたので、サンテレビのお二人からの質問に丁寧にお答えした。 

例えば、国鉄が持っている貨物駅とその敷地などの場所に「ベイサイド施設を設けることで、多くの観光客を呼び込める」案は、外国には多いベイサイド施設が日本には少ないことに着目して考えた案だった。 これは現実化して「ハーバーランド」と名付けられて現在では、神戸の代表的な顔になっているが、主筆などと一緒に練り上げた案だったのだ

また、中突堤から、トーアロードの一番上まで路上電車をサンフランシスコのように施設する案もあった。 新開地の近代化や、学生の多い岡本あたりをファッション街に変革させようという案もあったので、意気揚々と私見を述べ、約二時間ばかりしゃべった。

本日はどうもありがとうございましたと、お別れしたのだが、翌日にまた電話がかかってきて、もう一度お会いしたいとおっしゃる。もう、あれ以上にお話しすることはありませんと断る私に「今日は別の話でお会いしたい」という。

  またホテルのロビーでお会いすると

『実を申せば、昨日はテストさせていただいたのです。申し訳ありません』

『何のテストだったのでしょうか』

『奥山さんにテレビ出演をお願いしたいので、そのためのテストでした。お願いできますでしょうか』

『いいですよ』と、うかつに引き受けていた。あとで分かればワイドショーの司会役だという。

 そのころ、どっきりカメラというのが人気だったので、これもドッキリものかもしれないと、テレビに出るなんて広言しないで黙っていたのだった。テレビ局からも何の連絡もなかった。

 数か月後の9月初めになって電話があり、東京の帝国ホテルのロビーに行き、女優の入江若葉さんと会ってほしいと日時を指定された。どっきりカメラじゃなかったのだ、本当の話だったのだと知ったのだから、のんびりしたものだ。

 10月3日から始まる「は~い!2時です」というワイドショーで、キー局は東京テレビで放送エリアは関東一円、京都テレビ大阪テレビサンテレビが関西圏の視聴エリアとなる。月、木、金曜日は東京テレビ制作、火曜日は京都テレビ制作、水曜日はサンテレビ制作となっていた。

 司会者は、月曜日は竜崎勝さん(ウルトラマンの)火曜日は作家の飯干紘一さん、水曜日は、女優の入江若葉さんがメイン司会、わたしがサブ司会に、レポーターにかしまし娘正司花江さん。木曜日が俳優の宗像勝己さんと女優の長内美那子さん夫妻、金曜日がチェリッシュさんだった。日替わり司会という、ワイドショーでは新しい企画でもあったのだ。

 週に一度の担当であっても、もともと滑らかにしゃべられないのだから、当日は、朝から発声練習を繰り返していた。私が最初に出た日は十月五日の水曜日、午後二時からであった。(サンテレビに、問い合わせて確認した内容です)

  当時はすべてが生番組であり、一発勝負であり、やり直しがきかない。家庭用録画機がソニーから発売されたので、出演した番組をすべて(九十回ほど)録画し、箱に入れていたが、カビが生えて複製できた四回分だけ今も持っている。サンテレビでもテープが残っていないというのだから、わたしの持っている四回分でも貴重な映像に違いない。

  俳優、女優、芸人、歌手などのゲストも多く面白かったが、芸人というものは楽屋でその人の性格が表れる。そういう点で素晴らしいと思ったのは、藤田まことさんと、畠山みどりさんだった。 藤田さんは、挨拶ができる人だった、苦労人なのだろうとおもった。畠山さんはわずか一曲しかうたわないのに、楽屋で威儀を正しておられた。そんなに長い時間を楽屋で黙想されている人をそれまで見たことがない。本人に聞くと、歌は三分でも、しっかりと歌詞を心に刻み、それをどのように表現するかを、いつも心掛けているという。わたしは、彼女のフアンだっただけにその意気に惚れた。「いっぽんどっこ」の歌に、わたしが、どれほど鼓舞されたことかわからない。