中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(63)私を守ってくれたのはだれなのか

     《ボトムファッションを啓発》

  いくら素敵な場所に店を構えても、オーダーメイドの注文だけではやっていけない状態なので、既成のスカートを生産しようと考えた。当時の「そごう」でも「大丸」でも婦人服売り場に、スカートが10本から20本程度しか置いていなかった。ブラウス類は種類が多く、ハンガーに吊られた上着も多いのになぜスカートが少ないのか不思議だった。 これではブラウスとスカートでのコンビネーションを楽しむことも出来ないではないかと思った。 当時は午後3時に定点観測と称して三宮周辺の交差点で写真を撮り続けていたのです。ファッション都市神戸の中心地でどんな服装をして歩いているのかを知りたかった。

 はっきりいって思うほどに素敵だと思えるファッションにはお目にかかれなかった。 パリのように街中に多くのカフェテラスが並び、客が道路に向かって座り、道行く人々を鑑賞しているような場所では、道行く人たちは(観られている)ことを意識していて、先祖からの古い洋服を上手にコーディネートして街を歩く。 カフェテラスの客たちもそれを楽しむのだから、自然と町がファッショナブルになっていくのだが、神戸にはそんな場所はどこにもない。

 ファッション都市を宣言しても、作る方ばかりに熱が入り、神戸発の商品が売れていくことはあっても、人々の生活の中にファッション化は遠い道のりだった。

 ちょうどそのころ、業務用のファッション雑誌から投稿を依頼されたので

「これからのファッションはボトムで決まる」という記事を書いた。

この記事の反応がすごくよかったのに気をよくしスカートのデザインを考え、多くのパターンを作ってみたのだった。

 大阪の「丼池(どぶいけ)」の生地問屋で仕入れて生産することにした。三人が縫うだけだから大した数量ではないが、作れば売れるという状態にはなった。

 気に入ったデザインのものを数点、センター街にあるセリザワに持っていくと一本を3千円で仕入れて下さったが、翌日店頭では2万円で売られていた。商売とは儲かるようになっているものだ。

 街で自分のデザインしたスカートを着用している人を見かけるとうれしくなり、親戚のような気持がしてしばらく後を歩いたこともある。言い換えれば、それだけスカートの種類が少なかった時代でもあった。

 そのころ須磨区に、ラジオ関西が入っていたビルがあり、そこにはレストランもあって、おしゃれなビルだった。

 そのビルの2階と3階にブラウスを扱っていた卸会社があった。2階と3階が幅広い階段でつながれていて、まるで宝塚のショーを見ているような感じに作られていた。社内のいたるところに配慮が行き届き、近代的システムを取り入れ、小売店へのサービスや、仕入れ予約制なども斬新だった。

 植木商会の植木社長の人柄もよく、スカートを取り扱ってもらっていたが、スカート分野では私の店が独占状態だった。 どんどん注文が入り、順調な取引が続いてボトムに注目した眼力が的中したように思えていた頃だった。

 近い将来、この会社に痛い目に遭わされるなど想像もしないで有頂天だったのだから、わたしが未熟だったころの話である。

  《娘の大学入学》

 恵美が高校を終えて大学入学を考えていると相談に来た。高校時代は剣道部で活躍し、兵庫県の高校選手権で準優勝した(優勝は赤穂高)こともあり、2段を取得していた。

 わたしにもう少し甲斐性があれば、学費の支援をしてやれたのだが、まだまだ安定した状態とは言える状態ではなかった。すでに行く学校は倉敷短大と決まっていて、働きながら学校に行くという。さすがわが娘だと、うれしかった。子供たちにはぜいたくや、甘えは駄目だと言い続けて来ていたから、恵美も期待はしていなかったようだが。

  娘と一緒に岡山県倉敷市児島に行って、職安へも一緒に行った。良い会社で寮設備の良いところをと希望して探していただいた。

 昼間は縫製作業をして、夜に短大に通うのだが、健康なこの子ならやり通せると、信じていた。在学中に何度も児島に会いに行ったが、いつも元気そうだった。

 在学中にバンドを結成してチケットを売り演奏会を開いたり、本人なりに精いっぱい楽しい学生時代を送ったようだ。

 無事に卒業し、この大学で多くの友をみつけ生涯にわたっての付き合いもあるようだから、楽しい大学時代と言ってよいだろう。