中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(62)私を守ってくれたのはだれなのか

           《胃がんの家系なのか》

    それは四十歳を超えた頃だった。父は胃がんで死んだのだし、育ての母も胃がんで死んだのだから、胃がんの家系かもしれない、どうせ胃がんで死ぬのなら、先祖代々大好きだった酒を飲んでみようかと思い始めていた。当時の私の知識もその程度だったのだ。

  神戸市のファッション市民大学で親しくなった神戸大丸の宣伝部長だった小貫(こぬき)新太郎氏さんが、訪ねてきて、飲みに行かないかという。私はその日まで、だれに酒の席を誘われても行かなかったのだが、その時はあっさりと誘いにのった。

   連れていかれたのは、大丸にも近く以前は柳筋とも言われていた通りで今はセンター街の一部になっている。卵焼きとも言われるたこ焼き屋で有名な店の斜向かいにあった「しゃねる」というバーだった。

 これ以上汚いバーは他にないだろうと思われるところだった。間口一間で狭いうえに壁がベニヤ板でできていて、丸椅子だった。カウンターには傷が多く、八席が鍵の手に置かれている。

棚に置かれているのは、一番安いサントリーホワイトだけと言った風変わりな店だった。連れて行った小貫氏もなじみ客ではなさそうだった。

しかし、このバーに連れて行ってもらったおかげで、わたしには別の人生が始まったのかもしれない。小貫氏とは、彼が亡くなるまで親友だった。

  「しゃねる」のママは、日本が台湾を植民地としていた時代の、最後の知事の娘だった。生まれたのは日本で、中国で教育を受けたという。年齢は、わたしより十歳以上歳上だと思われたが、教養があり素敵な人だった。なによりも素晴らしいことは、ここに集まってくる客層だった。

 気に入らない人が入ってくるとママはぬれた雑巾を入り口に向かって投げつける。瓶をカウンターにたたきつけて追い出すという変わり者だったが、客層は一流だった。

  NHK朝ドラの「いもたこなんきん」のモデルとして有名だった、田辺聖子さんと、ご主人の(かもかのおっちゃん)が、週に二度はやってくる店だったのだ。

 だから出版各社の編集者たちもよく来ていたし、ほかの作家たちもよく来店していた。顔見知りの二期会の画家や彫刻家も来ていて、文化クラブというような感じで、会話も楽しかった。

 神戸新聞で人気の政治マンガを描いていた高橋孟さんは毎日来ていた。飲みながら構想を練っているようだった。楽にできる日もあれば、時間ギリギリになっても構想が浮かばない日もあるようだった。

 「シャネル」を知ったことは文化に浸る時間を楽しめることにもなったのだ。これが縁で、田辺聖子さんが神戸から引っ越された後にお宅にお邪魔したことがある。一つの部屋の中に、日本人形がたくさん並べられていて、少々気持ちが悪くなったことを想いだす。

「かもか連」に入って、徳島の阿波踊りの有名連として参加したこともあった。

あまり飲めない私だが「しゃねる」には、数年通っていたように思う。

  私の店の一階のゴルフショップで「ゴルフをやりませんか」と勧められてゴルフをするようになった。毎月一回コンペに参加する。ゴルフは上手くなれないが、仲間が増えて飲み屋に連れていかれることも増えた。これまで知らなかった、スナック、バー、クラブなど一通りは知っておけよと連れていかれたが、酒をすきになれないし、酒場特有の男女の雰囲気も好きになれなかった。「しゃねる」には、そのようなものがなかったのがわたしの性に合っていたように思う。

  KFS(神戸ファッションソサエテイ)の活動は順調で、市民の多くにKFSの名が知られるようになった。もちろん、KFSは側面から(神戸市のファッション都市宣言)を支援する立場であるので批判する人も少なくない。

  当時の神戸商工会議所の会頭は酒造会社の社長であったが、「神戸ファッション都市を考える会」において、私を指さしてこう言ったものである。各種団体のトップが集う会議の場であった。

  『きみねー、神戸市は何で持っていると思っているのだね。神戸はね、食品と工業で持っているのだよ。なにがファッションだ。ファッションに何ができると思っているのだね、辞書を引いてみたまえ、ファッションとは流行だと書いてあるぞ』

 まるで、わたしが神戸市をたきつけて、ファッション都市化宣言をさせたかのように攻め立てる。食品とは、灘五郷の酒造会社をさしており、工業は神戸製鋼とその関連企業をさしている。これまで神戸を支えていた立場から見れば、ファッションなんてくそくらえと思ってしまうのだろう。

それにしても、なにもファッションを目の敵にすることもなかろうにと、おもいながら聞いていた。

  ファッション都市化の責任部署が「神戸市経済局」だったことで目の敵にされたのかもとおもう。   こういう風潮もある中で、神戸のファッション業界は、帆に風をはらみ順調に育っていった。

  ワールド、オールスタイル、ジャバなどのアパレル産業、シューズメーカー、洋菓子メーカー、家具、美容業界など、幅広いファッション産業が、食品、工業を抜いてトップに立つようになったのだった。

 あまり知られていないことだが、ワールド、オールスタイル、ジャバの経営トップが淡路島出身の人たちで、洲本実業高校出身者だった。それに加えてもう一人、わたしと津名中学の同級生であり、同じように高校には進まず社会に出た、久加天進さんがいる。新開地の松竹座より数軒下に帽子とか小間物などを置いていた店があった。彼らは同じ店に働いていて、わたしが十五歳当時にその店まで行って久加天君と話し合ったことがある。

それから数年後のことらしいが、綿の生地を間違えて大量に仕入れてしまったことがあったそうだ。親方に叱られて、なんとしてそれを売りさばいてこいと言われて、彼らが考えたのは、婦人雑誌などに出ているブラウスの写真とか、型紙を縫製工業に持っていって作らせたところ、爆発的に売れたということが、すべての出発点になった。

 彼らは店をやめ、それぞれに独立した。久加天さんは、オールスタイルを川上さんと共に立ち上げ川上さんが社長に、久加天さんは副社長になった。オールスタイルの会社が成長したので、久加天さんは独立し、東京へ移り「ベルトトリコ」という会社を興し、大成功された。

 ニット業界では、彼のことを「ニットの神様」と呼んでいたほどだった。中学の同級生で、銀行の支店長クラス程度なら数名いるかもしれないが、京大を卒業して神戸製鋼の取締役になった坂戸さんが出世頭かと思うが、私は久加天さんを出世頭と思っている。同窓会に出てきて、マンションを五部屋続いて持っているなどと自慢していた人もいるが、そういう輩は出世とは思っていない。単に金をためたということだろう。

社会的に、どのような活躍をしたかということを私は大きく考えている。それにしても、神戸のファッション業界を支えた人たちの中に、淡路島出身者が多くいたというのは面白い。淡路島出身者で特に有名なのは「高田屋嘉兵衛」さんだろう。日本とロシアの外交に大きな足跡を残した。淡路島出身というよりも偉大な日本人と言うべきかもしれません。

    永田秀次郎さんは初代東京市長となり、いまも永田町と言えば政治の中心としてその地名を残しています。そのような先達がいるからこそ、淡路島出身であろうが、名を残してやるぞという後輩たちが生まれるのでしょうか。