胃がんかもといわれて、じゃあ、先祖代々大好きだった酒というものが
どんなものか味わってやろうという気持ちになった。
それを当時、神戸・大丸の宣伝部長をしていた小貫氏(彼とは数年前に
亡くなるまで友達だった)に伝えると、そうか、じゃあ俺が連れていってやる、
と大丸に近いセンター街の柳通りにある「シャネル」というバーに連れて
行ってくれた。
シャネルは、また項を改めて書きたいが、ここは文化人が集まる「巣」でも
あった。
小貫氏はシャネルの常連ではなかったのに、どうして私をここへ連れて行った
のかを聞いたことがない。
シャネルにはサントリーのホワイトしか置いていないという個性的な店だった。
ママが日本が台湾を統治していた時代の最後の知事の娘であって、学もあり
プライドの高い美人ママ(といっても、その頃はおばあさんだったが)だった。
その日はまだ早い時間で、カウンターで小貫氏と話し合いながら生まれて
初めての水割りを飲んだのだった。
彼とは、その後さまざまな店に行った。粋な小料理屋さんで日本酒を酌み交わし
ながら2、3時間も話し合っていた。
その頃に彼が「俺はこの間までニュージランドとオーストラリアへ出張で行って
来たんだよ。定年になったら絶対にあっちに住もうと決めたよ。もう、生活の
質が違うんだから、ちゅんさん(中原なので、ちゅんさんと呼ばれていた)
老後は外国だぜ!!」と言い、二人で固い握手をしたことがある。
その日の会話が、私をオーストラリアへ移住させるきっかけになった。
酒を飲まなきゃ、こんな機会はなかったと思う。酒を飲まなきゃ、喫茶店では
ここまで話がはずまなかったとも思う。
(続く)