《 この世に生まれて自分のためだけに生きるのではもったいない 》
はじめに書いてきたたような境遇に生まれ、身寄りの少ない私ではあったが、名も知らぬ人たちも含めて、多くの人に助けられながら生きてこられたように思っている。 苦しいことは多かったけれど、
だからこそ≪50歳からは人のために生きよう≫と心掛けたけれど、それが十分に達成されたとは思っていない。
どの高校にも行けなくて、就職もできないで、当時は新聞などに(無業者)と書かれ、社会的不安定要素の一つに挙げられていたのが、厳しい「15歳の春」を迎えた、中学卒業者の5%前後の子どもたちだった。
彼らに、なんとかして高校進学の夢をかなえさせてやりたいという思いで、高校創立に取り掛かった。 金も持たない49歳が、情熱を傾けて取り組んだのだった。 その情熱を支援する人が次々と出てきて神戸暁星学園が出来たのだと考えている。 最初の年の入学生は18人だったが、4年後には全校で600名の生徒がいた。
あの頃は、現在のように時間制で働けるような職場もすくなく、行き場を失った子供たちは、無業者として街をうろついていた。
わたしが、小さな一般法人の立場で高校を作るという新しい道を切り開いたので、いまでは巷に類似の高校がたくさんできている。 そういう意味で、わたしは新たな時代を切り開いたことを誇りに思っている。 また、卒業していった生徒たちが社会で立派に活躍していることを知った喜びも大きい。
豪州に移住し、その地の邦人サポートのための社会福祉法人であるサポートネット虹の会を設立した。 現在も多くの人がメンバーとなり、素晴らしい活動が行われている。
日本クラブでも私なりに組織改革が出来たと思う。 日本語補修学校設立のきっかけに関わることもできた。 十数年間にわたって、邦人新聞に持論を書かせてもらう機会も得たことはラッキーだった。
あらゆる意味で、西豪州・パースの地にもわたしの足跡を残せたと思っている。
2005年に帰国後は「がん患者会」を二つ立ち上げ、がんで悩む多くの人の支えになり、「がんの正しい知識」を広めることを心がけてきた。 「がん」については誤った認識が多く、がん医療においても誤った認識での民間療法などを信じるなど、医学不信が存在している。
「がん教育講座」や「講演会」などを通じて≪正しいがん知識≫にいくらか貢献できたと思っている。
政府、県などの行政にも、がん行政の在り方を正してきた。 なによりも、がん患者たちと寄り添って生きることを心がけてきた。 寄り添うことの難しさも考えさせられてきた。
このようにして、50歳以降の人生の多くは「人のため」を大きく意識しながら生きてきたと自負している。
《高齢病が次々と襲ってきた》
80歳の春に地域の役員会が、地域のホールで行われた。歩いて10分もかからない所だった。
帰路は上り坂が続いている。我が家のあるマンションまであと30mの所で、胸が苦しくなって歩けなくなったが、その家の門扉の中で犬が吠え立てる。犬は大好きなのだが不審者に見えたのか、異常者に見えたのか、緊急の吠え方なのか知らないが、歩けない身にとってはとてもつらい数分間だった。
やっと、歩けて家にたどり着いた。 翌日かかりつけ医のH医院へ行って事情を訴えた。本来は放射線診断が専門の医師だが、日本は「自由標ぼう」(医師資格があれば、どんな診療科目の看板も上げられる)という世界でもまれな制度なので、H医院は内科、呼吸器科もやっている。
H医師は、「喘息の悪化ですよ」と言って譲らない。 喘息の苦しさとは違うと訴えても、ほかの要素は考えられないという。たいていのことは「歳のせいですよ」という医師でもあるが六甲道駅に近いからか、よく繁盛している。
そのまま半年が過ぎた。がんサロンの近くに車を停めてからのわずかな距離を歩くにも三度ほど立ち止まるほどだった。いつも「どうしてそんなに足が速いのですか」と言われるほどだったのに、50メートルも歩くと胸が苦しくなるのだった。
いよいよ、辛くなってH医師にたいして「先生、これは喘息のせいじゃないと思います」と告げた。
「あなたがそこまで言うのなら」と医院にあるCТで検査をし、その結果をかざして「あなたがそこまで言うから撮ってみたが異状は何もないですよ。やはり喘息の悪化だと思う」という。
私は、その時点で「この医師はなにも診てない」と思った。せめて、病院を紹介すべきではないのかと思った。 H医院を出てすぐ近くのフォレスタというビルに買い物に行ったところで、ばったり知り合いの看護師と出会った。がん美術展などでいつも協力してくださっていて長い付き合いだった。彼女に「近くで循環器の医師を知りませんか」と事情を述べながら話すとK医院を紹介してくださった。
さっそくK医院へ行って、事情を話したが、K医師も喘息の検査だけで、次の機会に別の検査もしましょうと言った。