中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(111)私を守ってくれたのはだれなのか

        《この学校を作ってよかったと思えること》

 私たちの学校の教師は、暴力を使うことなくして生徒と交わり、生徒は心を開いて教師と交わってきました。 私たちの学校の教師による暴力が皆無だったとは言えません。開校してからの八年間で、多くの生徒が卒業し、今では600名の生徒が在籍しています。

 そのなかで、これまでに三度、教師による暴力があったと報告されており、そのたびに生徒に謝罪をさせ、辞職してもらいました。この三度も、指導と称する一方的暴力ではなく、生徒の攻撃から身を守る際のものであったと承知しています。いずれにせよ、私は暴力を絶対に認めません。暴力を使わなくても教育はできるからです。私たちの学校へ入学した生徒のうち、暴力的行為をする生徒はかなりの数にのぼります。そして、かれらは例外なく、 親や先生から強い暴力を受けて育っているのです。   暴力は新たな暴力を生むだけです。 暴力におびえ、処罰におびえておとなしくなった生徒を見て、教育的効果があったと考える教師は、力量のない教師ではないでしょうか。

世間には、暴力を振うことによって教育的効果があったと主張する多くの教師が存在します。そして それを「愛の鞭」と称しています。

それが間違いだということをその人たちは認めようとしないでしょう。それを認めることは、自分の能力がないことを認める結果になるからです。生徒に対して、どんな 理由があるにせよ、暴力を振るうことは断じてあってはならないことです。

教師の側に能力があれば、 暴力を使うことなく生徒に向かいあえる能力を教師の側が持たなければなりません。暴力否定の話になってしまいましたが、もう一度話を戻しましょう。

多くの教師が、それぞれに特徴を持ち、大きな愛を持って生徒を包んでいます。私が、一人の教師について書こうとすれば、すべての教師について書かねばならないほどです。これまでにも私の学園の教師について、折にふれて書いてきましたが、最後に、文字通りの献身的な人たちをここで紹介したいと思います。

       《献身的な教師たち》

長田校舎の予科には、何らかのハンディキャップを持つ生徒たちがいます。

長田校舎が、ハンディを持つ生徒たちのための校舎になって二年目から、藤井峯子先生は主任として今日まで支えてくださっています。

彼女はその経験から、長田校舎にいる教師たちにハンディを持つ生徒たちに対する教育のあり方、心構えなどを丁寧に教え、一人の生徒をもこぼしてしまわないように気配りをして下さっています。

そのストレスが大きすぎたのか、二年連続で大手術を受けたのです。一度は開腹手術、もう一度もそれ以上の手術でした。しかし、彼女は二度とも夏休みを利用し、生徒やほかの生徒に迷惑がかからないように配慮されたのです。

二度とも、なるべく早く手術をした方がいいということが明らかであったのに、自分の身を守る以上に生徒たちのことを心配されたのです。しかも「決して大げさにしないで」と言い、他の教師もほとんど知らないうちに現場に復帰されたのです。

入院前には、  「私に万一のことがあったらいけないので、その時は」と、後々のことを心配され、入院直前の夏休み期間中にも学校へ来て、後を任せる中井里子先生にさまざまな申し送りをされたのです。 その中井先生も、NHKの放送のあった直後、ご自分の長男の進路のことで相談にこられ、息子の入学と同時に長田校の予科へ教師として来ていただいた方です。

もう一人、岸本昌之について書いておきたいと思います。 彼は私の学校へ来て三年になります。始めてきた時からかれは週二回の人工透析を受けていました。

私は、週に二回の人工透析がどれほど大変なものかを知っていましたので、この学校のようなハードは仕事をとても彼がやれるとは思えなかったのです。

小柄で、声も小さい先生です。授業があまり好きでない生徒たちは、時に授業を妨害するような行為 もします。 体力のある先生でも「しんどい」 を連発するほど、体力的にも精神的にもハードな職場です。 しかし、多くの応募者のなかから彼を選んでしまっていました。 何かを彼のなかに感じたのです。

週二回の透析は、週三回に増えました。普通なら入院してしまうほどの状態です。それでも彼はがんばりました。ある日、生徒が 「岸本先生が三階の廊下で倒れている」と言ってきました。 急いでかけ上がり、彼を起こそうと抱きかかえた私は 「ハッ!」としたのです。 ウソのように軽かったのです。信じられないほど軽かったのです。 私は今でもその時の感触を覚えています。そして、教頭に彼の仕事がハードにならないように、特別に頼んだほどです。 そのようななかにあっても、教材研究には誰にも負けないほど熱心でした。彼の授業の時は、ふだんやんちゃな生徒も比較的静かに授業に参加しているのです。彼の静かな気迫を感じるのでしょうか。 今年、彼は入院して手術を受け、先日退院しました。そして、彼は私に一通の手紙を寄こしてくれたのです。原文を紹介します。

【暑中お見舞い申し上げます。 先月六月十七日から入院し、七月十一日には退院。約一カ月勝手をしまして、すみません。病名は腎臓癌で六月二十六日には右腎摘出の手術を受けました。原因の一つは、人工透析をする時に使用している薬(ヘパリン=血液が固まるのを防ぎ、血液がスムーズに流れるようになる薬)が、副作用を起 こして発癌しました。 癌は腎臓の中に二つありました(手術の時には、進行して三つになっていました)  最初は病院側と話をして、夏休みに入ってから手術をしてくれるように言いましたが、病院の方は病気が病気なので早くした方がいいということで、六月二十日に入院して、二十六日に手術と言われ、入院する六月二十日まで、授業と期末試験などの準備をし、校長先生と先生方のおかげで安心して入院ができました。入院は病院(外科)側の都合で三日早くなり、六月十七日に透析をしてそのまま入院しました。

その前に生徒たちのことが気になり、授業中に「身体の中にでき物ができて、それをとるので手術をする。授業は代わりの先生が来られるので、授業は心配しなくてもいい」と生徒たちには説明しましたが、一部の生徒が勘違いをして、私が退職すると思っていたので、その生徒たちにも詳しく説明しました。生徒には必ず二学期には復帰すると約束をしました。

入院してからの五日間は、ずっと検査の毎日で、五日目に外科の先生から告知がありました。悪性腎臓癌なので右側の腎臓を全部摘出する方がいいと言われて、同意しました。透析の主治医(内科)は、 私には病名を伏せて、親には病名を連絡しました。親は主治医に本人に告知して下さいと言ったらしいのですが、主治医は告知せず、外科の先生から告知を受けました。あとで分かりましたが、日本ではあまり本人には告知していません。

本人に告知をすれば、かなりの心の動揺があり落ち込んで、なかには悲観して自殺する人も少なくないと聞きました。

看護婦さんなどからは「最初の透析の時も平気な顔をしていましたね。普通は落ち込んだり悲観したりするし、十五年前だったら八〇%の患者が自殺している。今でも三〇〜四〇%の患者が苦しいので自殺する人が多い」と言っていました。それなのに今回の告知を受けても平気な顔をしているので、看護婦さんや医者も不思議そうな顔をしています。

人間は本来弱い生き物で、私も人間、弱い人間です。最初の透析の時は動揺しました。透析の医学はかなり進歩しています。 透析をすると延命できる。 透析を拒否すれば人生の終わり、死」ということで、 私は延命の方を選択しました。 今の医学は一日一日進んでいるし、私自身することがたくさんあるので、 落ち込む時間がおしいぐらいだと考えて、心の動揺を抑えました。

今回の告知を受けた時も多少は動揺しました。定期的に日曜日の学習会(患者の)に出席して、いろ いろいろな勉強をしました。 癌のことも学習をしているし、、「末期の生活」など聞いていたので大丈夫です。 平常心を保つように、入院する前にジグソウパズルを買って、入院中にパズルをやっていました。それと二学期には復帰するとの生徒たちとの約束もあります。この二つによって、心の動揺を乗り越えました。

今回の入院によって一番感じたのは、人間は「生きている」のではなく「生かされている」ということです。人間が生まれるということは、何かの使命を受けて、社会にいろいろな貢献をすることだと思います。貢献にもプラス、マイナスがあると思います。もし神様がいて、まだまだ使命があり社会に貢献すると思われたら、人間は生かされる。もし使命が終わると、神様が「ご苦労様」と言ってくれて人生が終わる。手術後よくそう感じました。 今、まだ身体は充分回復していませんが、二学期には復帰し、 また努力をしていきます。暑い日が続いていますので、理事長先生も、身体には気をつけて下さい。  岸本昌之 】