中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(91)私を守ってくれたのはだれなのか

        《私の役目は教員教育》

 (管理主義教育にならないようにと、教師たちを教育する)のが何よりも大変でもあった。

当時の中学校の一クラスは45人ほどだった。文部省の方針として、高校進学が94%しか認められないということは、一クラスで数名の生徒が高校進学の道が閉ざされた時代だった。

 就職難の時代で、高校進学できないと、邪魔者扱いされる時代でもあった。彼らに責任はないのに、落ちこぼれと見捨てられている現状を黙ってみておれなかった。 私は、やんちゃと言われる生徒も含めて、だれもに「多くの可能性」があることを信じていたのだが、教師たちの中には、尊敬されることなく、生徒から無視され暴言を浴びせられてついつい我を忘れてしまう教師も多い。 教師が生徒を信じることが出来なくなれば,あとは裁きがあるだけだ。 わたしは生徒を裁く教師を許せない。 だから根気よく(生徒たちは必ず成長するから見守ってやれ)と説くのだった。

  同じようなことは保護者たちにも言える。 家庭内で裁かれている生徒が大半なのも事実なのだ。 家庭で裁かれ学校で裁かれてきた過去を持つ生徒たちなのだ。

 彼らはみんな変われる、変わってくるという事実を見せない限り、人は信じない。

《川本君のこと、母親が変わって子供が変わる》

彼は公立高校からの編入生だった。真面目でおとなしい彼は、教師に表面上は反抗もしないし、言葉使いも丁寧な生徒だったが、 中学校、公立高校と不登校傾向が改善されず、公立高校では出席数不足で進級が危うい状態だった。衆議院議員から編入受け入れをたのまれて受け入れた。

彼に関していえば、本人よりも母親 により強く問題を感じていた。クラスが変わると、その担任が気にいらないとか、いつも学校に不平不満を持っているようで、私の自宅にまで深夜、何度も電話が かかってきたものだった。

この母親が、彼が三年生になった後半から大きな変化を見せ始めたのだった。母親は、それまでにもカウンセリングを受けに行くなどの努力もしながら、さまざまな苦悩を味わって来たようだった。母親と私が何時間話しあったことだろう。 延べ数十時間は話し合ったと思う。

彼が四年生になった時、母親は保護者会の副会長として、親が変われば子供も変わるという自分の体験を広めるべく、活躍するようになった。

内気で陰気だった彼がバイクに乗り始めた時は、母親は心配して相談に来たこともあったが、 すっかりたくましくなった彼は、アルバイトにも精を出すようになっていた。一人でバイク旅行をするまでに成長を見せた。

川本君は卒業後、日本でも有数のコンピューター専門学校へ進学した。お母さんは、その後も私と会うたびに涙を流して喜んで下さる。 子どもが成長できたのはこの学校のおかげだと感謝されるのだが

『いいえ、 私はお母さんを変えるのに必死だったのですよ。 あなたが変わったから、彼も変わったのですよ』と 私は話す。お母さん自身が、苦しい戦いの後につかんだ喜びだったのだ。

しかし、いつも私を困らせたのは教師たちだった。

 「他人の権利を侵さない」という唯一の規則しか作ってないことも、教師たちを混乱させたのだろう。

教師たちは、規則がなければ生徒をどのように指導してよいのか、分からないのだ。学校における規則は、ともすれば生活指導をするうえでの教師のマニュアルと化していたのだ。生徒指導は、教師一人一人の成長によって行えるはずであるというのが、私の持論だった。

        《四人の教師の退任》

二年目の一学期の終わりに四名の教師が私の所へやってきて

『今日限りで、私たち四名は辞めさせてもらいます』

『どうして?』

『ここは学校じゃないですよ。こんな生徒ばかり入学させた理事長の責任ですよ』

『どういうところが (こんな生徒) だと思うのかな』

『服装違反しても罰がない。タバコを吸っても、何度も何度も話をして言い聞かせるだけするだけ。勉強しに来ている生徒なんか一人もいない。みんな遊びに来ているのですよ。これが学校ですか?』

『じゃ、学校ってどんなところだと考えているの?』

『立派な建物があって、運動場もあって、生徒が勉強しに来るところですよ』

『それじゃ聞くけど、この学校の生徒には可能性がないって考えているのですか』

『生徒の善と可能性を信じるという理念は立派だけど、彼らの善や可能性を信じろと言われても、とても信じられません。理事長が自慢する二年生だってあの程度じゃないですか』

『君たちは教師だよね、今までも教師の看板を背負って生きてきたのだろう。どうして、生徒の可能性が見えないのかな? 信じられないのかな~』

『それより、私たち四人は、この学校はあと半年も持たないと思っています。こんな学校が続けられるはずないじゃないですか、潰れて当然ですよ』

私は、この言葉を聞いて、あきれ果て、そして腹が立ってきた。なんということだ。面接のとき

『理念、理念と言うほどのものじゃない。教育の原点として当然のことばかりだ』

と言った人も、この四人のなかに入っている。たぶん彼に唆されて一緒に退職を決めたのだろう。

ある公立高校で生徒指導をしていたので、生活指導には自信がありますと豪語していた高校免許一級の人もそのなかにいる。あとの二人も教職の経験者たちだった。その経験を買ってクラス担任をさせていたのだった。

 クラス担任が一学期で辞めるということはどういうことか、そのことがどれほど生徒にとって嫌なことなのかを、分かっているはずである。 そのうえ、あと半年でこの学校はつぶれます、と声をそろえて言うとは。生徒の可能性も生徒の善も信じられないなんて教師としての素質がないと言える。

『もし、半年してこの学校がつぶれていなかったら、なんて言うつもりなのだ』

『そんなことありません。必ずつぶれますよ。二学期に入ったら生徒はもっと荒れるでしょう。私ら四人のほかにも、もっと辞める先生もいるし、持つはずがありません』

『じゃ、生徒たちが見事卒業したら、その時に君たちはどの学校にいたとしても教師の仕事を辞めるべきだね、教師の資格がないことになるよ……』

『その時は、もちろん教師を辞めますよ』

 この四人に続いて、もう一人が辞めていった。彼は、 「教師という仕事に自信がなくなったので、うどん屋をします」と言って去っていった。

この四人に続いて、もう一人が辞めていった。彼は、 「教師という仕事に自信がなくなったので、うどん屋をします」と言って去っていった。

このようにして、五人の教師たちは去っていったが、二百人の生徒たちは 四年後に二期生たちは堂々と卒業していったのであった。 その彼らの卒業式で来賓の中学校校長の貝会長が

『長い教師生活で、最高の卒業式を見せてもらいました。そして感激しました』

と言ってくださったほどの立派な卒業式であった。

あの時の、あの教師たちは、今どこかで教師をしているのだろうか。このことを知ってどんな気持ちでいるのだろうかとおもう。