中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(108)私を守ってくれたのはだれなのか

     《そんなある時、暴力事件が起きました》

ある生徒の行動が悪質であり、数度目であったので、停学処分にせざるをえませんでした。(退学ではありません)

処分権は教師に与えていないので、私が生徒と面接をしたうえで決めたのです。その生徒も反省し,停学になっても仕方のないことを俺はやったと納得したのです。

ところが、それを知った彼の仲間が怒り出して、次々と問題を起こしました。そんなある日、問題を起こした生徒に、教師が「処分するぞ」と脅したのを契機にして、彼ら数名が口々にわめき始め、 ついには、 「覚えておけ!   明日、よその学校の仲間を大勢連れてきて、 こんな学校メチャクチャに壊したるわ!   覚えておけよ!」 と言いながら出て行ったらしいのです。

「らしい」と言うのは、私はその現場にいなかったからです。 

私は、その年に副校長に任命したA先生に遠慮しすぎたことを後から反省しました。その前年までは、U教頭が連絡を密にしてくれていました。特に問題が起こると、その経緯、処置、相談などをきっちり整理して報告がありました。

この年、A先生からはあまり報告がありませんでした。温厚なA先生は、公立高校時代、生徒指導のベテランとしてならしたものだと聞いていましたし、私より年長だということで遠慮もあったのです。 A先生に出会うたびに「須磨校はどうですか」とたずねる私に、 「いやぁ、大丈夫です」という。

須磨校にはA先生のような経験豊富な先生がおり「うまくいっております」との返事ばかりでしたので、生徒を停学処分をしなければならない状態に陥っているなどとは思ってもいませんでした。

私の責任であり、悔いの残る年でもありました。

    《生徒の脅しに震え上がった教師たちの選択》

「覚えておけよ!」という数名の生徒の叫びに敏感に反応した教師たちは、即座に職員会議を開きました。 職員会議を開いているという報告も、私は偶然に知ったのでした。

夜に他の要件で連絡を取りたい教師がいたので家に電話をしたところ、まだ学校にいるはずですと聞いて、須磨校舎に電話をし、事のいきさつが分かったのです。私は急いで車を走らせました。私が着いた時、ちょうど職員会議は終わっていた。

副校長に、すべてのいきさつと、会議の模様、そして結論を問いただしました。結論は次のようなものでした。

『明朝、職員は朝早く出勤し、玄関に机などを積んでロックし、校舎を閉鎖します』

と副校長が言う。

 そんなはずはない、私の聞き違いだと、そう思いました。わたしの右の耳はまったく聞こえないので、聞き違えたのかと思った。教師が校舎をロックして閉鎖する??

私は、もう一度同じ質問をしたが、同じ答えが返ってきました。

私は、目の前が真っ暗になるような思いがしました。顔が真っ赤になるような恥ずかしさを覚え、頭がくらくらっとなりそうでした。

「信じられない!    どうしてそんな決定をしたのだろうか」  しかし、私の目の前にいる副校長も、そばにいる教師も平然としています。 長い時間をかけて真剣に議論して決定したことだという満足感が顔にあふれています。 

私は急に腹が立ってきました。

 君たちはそれでも教師なのか。

どうしてそういう結論になったのか、これだけの教師が集まって会議をして、そういう結論を出したことを恥ずかしく思わないのか。

この学校は、行き場を失った生徒たちのために、わたしが情熱をもって、心血を注いで作りあげたのであって、あなた方教師のために作ったのではない。

よく考えて反省しなさい』

そして強く指示を出しました。

「絶対に明日は、なにごとも起こらない。わたしが保証する。生徒は暴力なんかやるはずがない。私は生徒を信じている。 だから、ふだんと同じように、まったく同じように授業をしなさい」と強く支持を出した。

ある教師から

「しかし・・・・・、あの剣幕では何を・・・・・」と懸念の声が聞こえてくる。

「私の指示に従ってください。 私がすべての責任を取るから指示に従ってください。この学校は、誰のために、何のために作ったのを忘れているのですか。 君たちのためじゃない!    生徒のためにつくったのだ!    生徒を信じられないで、生徒を締め出すような教師はサッサと今直ぐにでも辞めなさい!」

副校長をはじめ何人かが辞めていきました。いい人たちで、おだやかな人たちでしたが、生徒を信じることができなかったのです。

私が思ったとおりに、生徒はふだんどおり授業をうけました。何も起こりませんでした。

もし、校舎を机や椅子でロックし閉鎖していたら、生徒たちはどう思ったことだろうと考えると、ぞっとします。

やはり、生徒のほうが一枚上手だったなと、後で教師が反省していたと聞きました。

「部外者乱入」

その年、ひょんなことから新聞に別のことで「部外者乱入」の見出しで書かれたことも、教師たちを過敏にしていたようです。

事のいきさつはこうです。

退学した生徒が授業中に教室へ入り(玄関は開けてあるので誰もが入れます)、友人を呼び出して外へ出る途中、一人の生徒と出会いました。 この生徒はやや情緒に問題があって、ふだんから他の生徒にからかわれることがありました。二人は、彼の股間にホウキの棒   (廊下に置いてありました)を通し、二人で「オミコシワッショイ」とかついだのでした。その時かつがれた生徒がケガをした(入院一日間)ことが、   「部外者乱入」の見出しで記事にされてしまったのです。

記事をよく読めば、見出しと違うことが分かりますが、多くの人は、内容よりも見出しだけで反応するものです。

その反響は大きいものでした。

神戸暁星学園がテレビ、ラジオ、新聞、週刊誌などで報道されたことは、それまでに15回もありましたが、いつも好意的な扱いでした。ほめて下さることばかりでした。後にも先にも、この報道だけは、それまで生徒のためのみを考えてきた私にとって、つらく悲しいことでした。 また、これだけの努力をしていても、この新聞報道だけで、翌年の生徒募集にはかなりの困難をともないました。

いずれにしましても、このたびの校舎封鎖事件は、多数で決定したからといって正しいとは限らない。

教師たちもこの記事のことで、精神的に追い込まれ、正常な判断ができなくなったのだと思う。

多数に頼ると危険だということの教訓でもあり、常に私に連絡を入れるという指示が守られていなかったことも、組織の脆弱さだったとも思う。