《大胆な挑戦をやってみようとかんがえた》
神戸市中央区の下山手通りと、神戸大丸から北に延びている鯉川筋の交差する、南西角ビルの2階の一部屋をかりて「おくやまデザインルーム」という看板を窓に書いてもらった。一流の場所である。
始めようとしている仕事は、女性服のオーダー店である。元妻(離婚はしてないが、わたしの中ではそう決めていた)が縫子二人を雇って、製図、裁断、仮縫い、縫製をやっていたが、最終工程の縫製以外は私にもできるという自信があった。当時はまだ縫える人が多い時代だったが、製図、裁断をできる人は少なかったものだ。
製図というのは、一人一人の身体のサイズを計り、それを紙の上で立体的に考えながら、作図していく。むつかしいのは、客の求める複雑なデザインを再現できるかどうかだ。襟や袖もむつかしい。意外とむつかしいのは、裁断なのだ。
そういうことをなぜやろうとしたのか、自分でもわからないが、俺ならできるということだったのだろう。元妻がやっていた製図を見た時に、ぼくのほうがうまくできそうだから、やってもいいかいと、なんどか製図をしたことがある。
どんなことでも調べて、自分なりに理解していくというのが「私流」でもあって、さまざまなことで、それが生かされたものだった。
大胆不敵なスタートだったが、おいそれとオーダーメイドの客が来るはずもないので、
「手持ちの生地を生かしましょう」という新聞広告を神戸新聞に毎週だしてもらった。それで、ぼちぼちと客が来るようになったが、店舗の借り賃などの支払いや広告費もあって支出も大変だった。
そういう時に、北長狭通の北に一本上がった道の、大きな紳士服生地の卸し屋さんの若奥さんが、自分の名でブチック経営をなさっていて、すべてがイタリア製かフランス製の生地を使った「プレタポルテ」だった。
近くだったので、一度わたしの腕を試してみようと思ったのか、着分に切った舶来生地5枚を、製図と共に持ってきて、裁断をお願いしますという。少し厄介なものばかりなので、工賃は弾みますということだったので引き受けた。
元妻がやっていたのは、相手が田舎の人たちでもあり、生地を売っているところが布団屋さんであったりして、外国製の柄物生地ではないので、裁断に関しては、生地の表裏と、上下だけ気を付けるだけで、着分は大きくとってあるので、裁断は簡単だった。
ところが、欧州生地で着分がみじかく、しかも柄物で、その上に凝ったデザインで型紙には切込みが多いという厄介な代物ばかりもちこんできた。じぶんのところで型紙を生地の上に置いてみて、裁断不可能とおもったから、持ち込んでできたのかもとおもわれるものばかりの仕事だった。
もちろん、わたしはこんな裁断をやったこともない。間違って裁断すれば弁償しなきゃいけなくなる。しかし、やってやれないものはない。見事に裁断ができた。相手に気に入ってもらえて、その仕事が約一年間つづき、これで食わせてもらった。
それにしてもこれが、とてもいい経験になった。あれほどむつかしい裁断を一年間もやったことで、看板を上げている身にとっては自信になった。そのごに姫路のデパートの「チェリーショップ」に週一度の主任デザイナーとして一年間勤務したが、あの裁断で付けた自信があってこそできたのだった。当時は、大阪には三軒ほど舶来生専門の卸売りがあり、神戸三ノ宮駅下の「ガード下商店街」では、国産生地も舶来生地(着分)を豊富に小売りされていたものだ。
特異だったのはチェリーで、全国に地域一店舗主義で有名デパートなどに「チェリーショップ」を展開していた。姫路のデパートの主任になったころ、全国主任者会議があって、東京のチェリー本店に集ったとことがあった。全国の店で注文を受けたものは、すべて東京の縫製工場で縫製されていた。オーダーメイドではあるが、この体制なら、いつでもプレタポルテの会社に転向が可能だなとおもいながら工場見学をした。
その折に、神戸元町駅前の「春貴」の名が出て、「私たちは、年に二度、春貴さんの服を買い求め、それをばらして、芯の使い方などを研究しています」と工場主任が言うのを聞いた。不思議なことに、後にわたしは春貴さんとも深い縁になる。
難しい裁断を一年やったことで自信を持ち、それに勇気をえて、元町三丁目商店街の一本北の通りの二階に店舗を移した。それまでの五倍以上の広さがある。縫子さんを三人雇った。あの頃は、オーダーメイドの服を縫うのは一種の誇りでもあった時代だったので縫子さんを探すのは簡単だった。
《 大きな仕事を元妻に紹介する 》
自分のことだけをやっていたのではない。
淡路の縫製工場には元妻(離婚はしていなかったが、わたしにとっては元の妻という感じだった)の弟が会社を辞めて元妻の工場に来てくれるようになり、足の確保はできていたようだが、彼が営業として仕事が取れるかどうかは別である。
私が家を離れてからも、仕事がなくては困るだろうと、わたしはこれまでの顔を利かせて仕事を取っては連絡していたのだった。
元町に移ってからまもなく、王子公園近くの「(株)富士プリーツ」を元妻に紹介した。この仕事は布であり扱いやすく、仕事も長く続いたので、元妻は当時大流行だったプリーツスカートの大量縫製が長く続けられ一財産を作れたのではないかと思っている。
四十歳になる頃、一階にゴルフショップがあり、よくのぞいていた。そこに外人バーを経営している山田さんとなんども顔を合わすうちに親しくなった。ある日、この時計を買わないかと、持ってきたのが「ローレックス」の時計だった。偽物もあると聞いていたので、ちょっと預かって元町商店街の有名時計屋さんに持っていき、鑑定してもらうと正真正銘のものだという。
時価の三分の一だったが、彼はもっと安く船員から手に入れていたのだろう。この山田さんには、その10年後に、わたしが高校を作る際に大きな役割をしてくださったが、ご縁とは不思議なものだ。