中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(55)私を守ってくれたのはだれなのか

   《 正木氏の死去で、餌が突然来なくなくなった 》

  鶏卵は、義母が新聞に書かれている標準価格よりもキロ単価を少し高く引き取ってくれていた。 神戸の南京町では、新鮮な卵だと喜んでいただいているそうだ。養鶏というのは、本当に難しい。 鶏の健康が第一だから、既成の餌では高たんぱくになりかねない。高たんぱくの餌は、卵をよく産む代わりに鶏の体調も壊しやすい。 その加減を完璧にしようと思えば、環境も大事な要素になる。 池の下の環境では湿度が高すぎる心配があった。

 それなりに順調だったある日、農協の飼料部に餌を注文すると、そのあと農協の職員がやってきて、

『餌は、配達できません。現在農協があなたに貸し出している分の金額を返済すれば、餌も配達します』

この人は、何を言っているのかと思い

『農協長の正木さんから委嘱されて始めた事業です。やっと軌道に乗り始めた時に、餌を中断するなんて、おかしいでしょう』

というと、意外なことを聞かされた。

『正木さんは、一週間前に交通事故で即死されました。これまでの取引は、農協とあなたとの間の約束事ではなく、正木さん個人とあなたとの約束になると新組合長が判断されました。新組合長は、上井さんです』

  頭の中が真っ白になった。こんなバカな話があってたまるかと、おもったがこれが現実だ。正木さんが交通事故で亡くなり、津名高校の体育館で盛大な葬儀が行われたが、まさか、餌が来なくなる事態になるとは思いもよらぬことだった。世の中は、こんなにも薄情なものかとしみじみおもった。

  正木さんが交通事故で突然に亡くなるなんて、考えたこともなかった。人生って、こんなこともあるのだな。前途洋々だった正木さんがこんなにもろく逝ってしまうなんて、そしてそのトバッチリを、自分がもろに受けているなんて。正木さん個人と私の私的取引だと新組合長が判断したとはどういうことか。そういえば、農協と何らかの契約を交わした覚えはない。私的な契約とは、参ったなー。

 まず、明日の餌をどうするのだ。とりあえず、草でも刈って与えたとしても、鶏は敏感だから、毛換えを始めてしまうだろう。一旦、毛換えを始めれば二か月間はまったく卵を産まなくなって、収入がなくなってしまう。どうするか、考えれば考えるほど、深刻になっていき、目の前が真っ暗になり、眠ることさえできない。

朝方の四時になっても眠れない。

(考えても解決しないことを考えるのは、時間の無駄だ。いったん眠って、起きてから考えようと腹を括った。その日の経験から、夜も寝ずに考え悩むってことは、絶対に今後もしないぞと心に決めたのであった。

翌朝早く起きて、残っている飼料をいろいろ混ぜて増量し鶏に与えた。もう一度じっくり考える。

  農協の言い分は分かった。組合長が変わり、前組合長の約束なんて知らぬ存ぜぬだというわけだ。ほかに、飼料を扱っている店があったかなと思いを巡らすうちに、引摂寺の向かい辺りに扱っている店があることを思い出した。思いついたが吉日というが、以前から評判が芳しくなかった店だったが、私の申し出を、あっさりと受け入れてくれ、手形で買うことを約束し、直ぐに配達してくれたので、鶏たちにひもじい思いをさせずに済んだ。

   引摂寺(いんじょうじ)は、庵の山にあった十三石塔が移転されているところだ。偶然だろうが、鯉の夢を思いました。

まだ板をきちんと張ってなかった南向きの小さなテラス?から床下に3女(今では次女といっているが)の宣子が落ちたが、けがもなかった。宣子はまだ歩けないが、ハイハイして動き回り元気だ。 恵実は食欲旺盛で、鶏の骨付きモモ肉を手にもってペロッと平らげる。鶏舎の中を歩き回り、健康優良児そのものだ。

 1964年9月24日に四女が誕生した。これまでと同じように早産で、(農協電話)で産婆さんに知らして、湯の準備などをしているときに、産まれそうだという。北側で鶏舎に面した、いつもは鶏卵を掃除したりする作業場みたいに使っている部屋だった。あっという間に、頭を出してきたので、私がそっと抱いて、バスタオルの上において産婆さんの到着を待った。産婆さんも心得たもので、早く来てくださったので、処置も早く済ませられた。当時は、電電公社の電話とは別に農協電話というのが、農村部分だけに普及していた。「藍子」と命名した。何ごともなく、楽しい日々が過ぎていった。

  その年の10月10日(昭和三九年)待ちに待った「第一回東京オリンピック」が開幕した。やるべき仕事を最低限にとどめて、二週間はオリンピックに夢中だった。心配事もなく、五輪を満喫できてとても幸せだった。五輪期間中に30歳の誕生日が迎えられるなんて、幸せだなーという気分だった。

  《 運命が動き始める 》 

 オリンピックが終わってから、佐野の伯父が面白い話を聞かせてくれた。

『うちの庭先にある小屋をしっているだろう? それを貸してくれと近所の人が言うものだから貸してあげたのよ。それが結構忙しいらしく、いい仕事のようだよ』

『なにを作っているの?』

『靴の甲みたいだな』

『近いうちにみにいってもいいかな?

『いつでもいいからおいで』

行ってみると狭い場所にミシン二台を置いて縫っていた。ちょっと見には帽子のようにもみえる靴の甲の部分だった。

帰って妻に話すと、家でできるようなものならいいけどという。あの程度の場所なら、この地に建てることもできるとも思えた。しかし、どこで仕事をもらうのか、叔父の小屋で作業をしている宮本のテッちゃんという人に直接聞くわけにもいかず、仕事を紹介してほしいというわけにもいかないだろうとも考えた。

 新聞の求人広告を見て、大きな会社と思われる数社に手紙を送ってみた。そのうちの一つから電報が来て、会いたいから会社に来てくれとあった。神戸市長田区のケミカルシューズ会社の大手の「大関ゴム」の児玉社長にお会いした。目の前に頑丈そうなブーツが出され

 『これが縫えるか』と問われたので、ハイと答えた。この時点で歯車が回り始めた。もし、いいえと答えていれば、どうなっていたのか、神のみぞ知ることだろう。

この一瞬で、どんどん歯車が回転し始め、次から次にいろんなことに巻き込まれていくのだった。

『何人、縫子がいるのか』

『三人です』

『これまでに、ブーツを縫ったことがあるか』

『いいえ、ありませんが、できます、しばらく時間をください』

『縫子をもっと増やせるか』

『努力してみます』

『準備が整ったら連絡してくれ。仕事はいくらでもあるから急いでくれ』

社を辞して、家路についた。帰路のフエリーボートの中で、ノートに記しながら、ブーツの縫い目を順にきりほどいて、組み立て方をしらべた。それほどむつかしいとは思わなかった。

 とにかく工場が必要だったので走りまわり、隣の町の「塩田」にあった、もと製材工場を借りる交渉をすませ、「いざというときには声をかけてくれ」と言って下さった高部さんに甘えることにして、材木を注文した。元製材工場なので周囲のかこみもないし、床もなく、電源もない。材木を使ってできる部分は、全部自分でやった。なんとか工場らしきものが出来上がったが、肝心の工業ミシンがない。 郡家町にある松野ミシン屋さんまで足をはこび、とにかく三台の工業ミシンを手形で売ってほしいと頼みこんだ。

 ミシンが運び込まれたが、縫製工がいない。地元の緞通(だんつう)工場で働いているミシン工と話をして、二人が来て切れることになった。

 すべてが泥縄式で、仕事を確保してから工場を捜し、自分で大工仕事をして工場らしくし、ミシン工を集めるという無茶苦茶なやり方だが、今後鶏の餌が手に入らなくなることも考えての行動だった。

 緞通は、太い紐をジグザクミシンで縫い合わせて大きくしていく単純作業なので、期待はできないかもしれないが、動力ミシンを使えるという点ではものになるだろうとおもった。

 ミシンも、ミシン工もそろったところで、神戸の会社へ行き、仕事をもらってきた。ところが、歯が立たない。歯が立たないというのはこのようなことだろう。ビニールが分厚過ぎてミシン針が折れてしまう。松野さんに来てもらって相談すると、こんなに分厚いビニールを二枚重ねて縫ったことがないからわからない、でも、長いあいだ、長田のミシン屋で修業したので電話して、聞いてみようと言って下さった。

 その結果、わかったことが三つあった。一つは、このブーツは、ベトナム戦争で使われている「ジャングルシューズ」というものだそうだ。二つ目は、特異な取り付け金具(アタッチメント)を数種類必要で、三つめは針を太くすること。

こんなことも知らないで、引き受けたとは、軽率のそしりは免れないだろうが、(三十にして立つ)という言葉とは何かと考えていた時期に伯父の話を聞いたので、飛びついたとしか言いようがない。

何がなんでもやらなきゃならないところだが、想像を絶するほどむつかしい。ミシン工は妻を含めて三人と、下手間と呼ばれる縫ったものに鋏を入れ、整理していく人も雇っている。だれもこれまでに一度も経験してないことをやっているので、不良品ばかりできてしまう。

 分厚いビニールなので、間違ったところを縫った場合に、布のようにほどいて縫いなおしができないのだ。ビニールに穴が開いてしまって手の施しようがない。二か月間は不良品が多くて、弁償金のほうが多くなってしまった。その上に賃金を支払うのだから、大赤字になっていたが、八月になってようやく順調に良い仕事ができ、黒字に転換していた。