中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(51)私を守ってくれたのはだれなのか

  《正木さんとの出会いと、死》

さっそく夜にお宅に伺った。旧道に沿った大きな邸宅だった。奥山家にとっては戦後までの元・地主であり深い関係の家だった。そのころは農協の組合長であり3町村が合併した津名町の議員であり、議会議長であり、任期が半分すぎた西町長のあとを継いで次期町長に当選することは間違いないと噂されていた人だった。軍人としても町一番の位だったとかで、人気のある方でもある。私などに用があるはずがなかった。

ついでだから、戦後の農地解放について書いておきたい。
高校の歴史教科書は農地改革を占領軍GHQの指示によるものだとしている。また、今では多くの農業関係者さえそう信じている。しかし、財閥解体等他の改革と違い、日本政府から自主的な改革案として出されたのは農地改革のみであった。小作料が収穫物の半分を占める地主制のもとにある小作人の地位向上、自作農創設は戦前の農林官僚の悲願だった。それを実現したのが和田博雄さんである。和田は戦後経済復興の政治舞台に彗星のように現れ、小作農にとっての救世主となったのだった。

 

正木孝良家において

大きな座敷に通され待っていると、孝良さんが前に座り

『呼び出して申し訳ない。昼間は忙しくてナ、時間が取れないから夜に来てもらった。ほかでもない、実はナ、君のことは5年ほど前から知っているのだ。最近のことは、調べて知った』

『どうしてわたしのことなど、5年前からご存じなのでしょうか』

『5年ほど前に、新聞に君の名前が載ったことがある,憶えているかい』

『何新聞でしょうか、憶えておりません』

『どの新聞にも載っていたよ、兵庫版にね。覚えてないようだが、コチア産業組合のことは覚えているだろう。ブラジルの日本人たちで作った農業団体のことだ』

『よく覚えています。せっかく合格したのですが、お金がなくていけませんでした』

『あの記事を見た時、この町にも君のような気概をもった若者がいたことを知って、感動していたんだよ。そこでだ、話というのはね、君に養鶏をやってほしいのだよ。これからは、食生活改善のためにも養鶏産業が盛んになってくる。君に、この町の先駆者になってもらいたい。少しの資金と、餌は農協が無制限で貸し出すからね』

この話を、どうして断らなかったのだろうか。自分でもわからない。断っておけば別の人生になったかもしれないし、人生の岐路となったのは確かなことだ。

とにかくこの当時の、町一番の人から気概のある人と言われたのだし、支援してくれるという。これを選択するのも一つの生き方かもと、思い込んでしまったようだ。

養鶏だから、街中ではできない。どこかに適当な場所はないものかと探し、合併前の隣町の「中田村」で該当する物件を見つけた。幹線路から家までは二百メートル離れていて、近くに家がない。近所に迷惑は掛からないだろう。門長屋があって、中庭があり、本家のそばに風呂小屋があって、その隣に立派な蔵が建っている。本家の中は広すぎるほどに広い。

養鶏を始めるとすれば中庭しかない。門長屋の中は農具置き場だったらしいから、餌を置く場所になる。家主は東京にいる人で、地元の人が管理を任されていた。管理者は近くに住む人らしい。家主に問い合わせて返事するという。

まず、豊橋市の孵卵場に百羽の白色レグホンのひなを注文し、ひなが着くまでに、育雛器を作った。サーモスタットを設置して温度管理ができるようにしたが、当時としては、先端的なものが出来たと思う。

ひなが大きくなる前に鶏舎を作らねばならない。当時すでに金属製のケージがあったが、高価なので、すべて手作りでやった。鶏を一羽ずつ入れるための仕切りには、安い木材を使い、鶏の足元の傾斜部分の簀の子は、竹を割って、錐で穴をあけて釘で打ち付けた。二羽ごとの糞受けなどなかなか手間のかかる作業であった。

一棟で五十羽収容出来るようにした。四棟分を作るのに半年かかった。最初の雛が卵を産みはじめるころだった。全く収入はないが、餌は農協が貸し出してくれていた。養鶏というのは、ひなを順に育てていかなければならない。生まれたての雛、こびな、中ひな、大雛、成鶏が順にいる。

家までは、バイクで二十五分程度だったが、夜も作業をしており、経理の仕事も続けていたので、めったに帰ることもなく、週に一度程度しか家には帰れなかった。昭和三十六年になって、妻と恵実がこちらに移ってきてやっと家庭らしい生活になった。恵実が、卵がごろごろ転がっている鶏舎のあたりをうろうろ歩く姿がとてもかわいかった。

翌年二月一日に三女が生まれた。産婆さんは遠いところまで気の毒だったが、いつも安産なので気が楽ですよと言って下さった。この子も早産だったので小さく生まれた。宣子と名付けた。

やっと落ち着いた生活が始まっていたのに、何とも言えない不吉感がただよいはじめた。深夜の一時をすぎたころに、まいにち電報が届くようになった。内容は「早く家を出ていきなさい」という文言だった。わざと深夜に届くように時間を合わせて発信しているのだろうが、夜ごとに届くというのは異常すぎて気味がわるかった。十日間もそれがつづいた。それは、家主が発信したものであった。最初の電報が来る数日前に管理の人から、家主が、なるべく早く退去してほしいと連絡がありましたと穏やかに言われていたが、電報攻めにあうとは想像もできなかった。

わたしは手紙を書き、事情を詳しく述べ、なるべく早く退去するつもりで場所を探しますが、もうしばらくお待ちくださいという旨を書いて出した。それから一週間後に、「こちらにでてこい」という旨の電報があり、日時指定だった。こりゃ凄いひとだな、強引な人だと腹が立ったが、東京・浅草の小さな小児科医院に出向いた。

外から見ても小さな医院だが、待合室も小さかった。椅子に座って待っていると、入ってくるなり

『きさま、わたしを何だと思っているのだ』というのが、第一声だった。さっぱり訳が分からず、わたしは首をかしげた。

『お前は、宛名の書き方もしらねえのだな、殿と書くのは目下のものに向かって書くことだ。そんなことも知らないのか。どうして先生と書かないのだ』

わたしも、当時はそんな知識がなかったが、気やすい友達などからは、宛名に様をつけてやり取りしていたが、一般的に届くものには殿がつけられていて、違和感がなかった。ところが相手は殿をつけて差し出したことに対して怒りに触れているようなのだ。少し間をおいて、反撃にでた。

『お話の内容はよくわかりました。いい勉強をさせていただきました。しかし、私のところに届くもののほとんどは殿がつけられておりますので、私は悪気があって書いたのではございません。かし、私も東京の学校に学んでおりましたが、教授にも「きさまとか、おまえと呼ばれたことは一度もございません。また、私は会社とか商店の経理の仕事をしており、みなさんから先生と呼ばれておりますが、私の心の中では、(先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし)という言葉を戒めとしております。先生のご先祖は中田村の庄屋だったと聞き及んでいますが、私の祖母は中田村の武士の谷上家から嫁いでいて、志筑の大庄屋の忍頂寺家とも親しくさせていただいておりました。また、養鶏は、津名町の農協の会長であり、津名町議会議長で、次の町長になられるだろうと評判の高い正木孝良さまからの直接の委嘱で行っております。中庭を使用させていただいておりますが、家の中は以前に増してきれいに使っており、ご心配には及びません。なにとぞ二年ほどのご容赦をお願いいたします』

皮肉いっぱいを込めて、一気にしゃべった。それが伝わったのか、

『二年ですよ、それじゃ念書を書いていただきましょうか』

話は一挙に決着した。神学校で受けた説教学が大いに助けになった。そして、日本の民主主義は欧米に比べて百年以上の遅れがあり、江戸と言われた東京では、地位による身分制度が厳しく、明治政府府以降もそれが続いていて、最も民主化が遅れるでしょうと教わったことも役立った。家主の医師は、その最たるもので、敬称も差別の中で考えていたのであろう。

ことについでに書いておくと、関東一円の地方自治体では、昭和四〇年代後半から五〇年代前半にかけて次々と、「殿」から「様」に切り替えたようである。  自治体によって大きく異なり、鹿児島県の薩摩川内市では平成一八年度に「様」に切り替えたという。私のこの話は、昭和三七年のことであった。