中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(47)

養鶏業がようやく軌道に乗ったかに思えたのは29歳になっていた頃かと思うが、今となっては定かなことが思い出せない。
そのようなある日、私に養鶏を勧めてくれて、援助の手を差し伸べて
下さったいた正木氏が交通事故で亡くなったという知らせが届いた。
町議会の議長であり、農協組合長であり、次期町長として慕われて
いた正木氏の葬儀は、県立津名高等学校の講堂で盛大に行われ
多くの方々が参列した。
 
正木氏の死後1週間ほど経って、いつも定期的に納入されていた
飼料が届かないので、係の人に問い合わせると、本部に話を聞いて
くれと言うすげない言葉だった。
農協本部に行くと「今後は、これまでのように飼料を届けられない。
これまでの代金などを全部清算してもらってから、再び取引を
開始したい」とのこと。
 
鶏は生き物だ。餌なしでは生きていけない。餌を急に変えただけでも
ショックを与えて毛換えを起こしかねないほどなのに、一日でも餌が
途絶えればどんな結果を招くか、考えても恐ろしい。
毛換えが始まれば、何か月間も産卵が止まって一挙に経営困難と
なる。
新しく選ばれた組合長は、元小学校校長だった。彼にこれまでの
経緯の一切を話し、正木さんからの呼びかけで養鶏を始めたので、
ここで餌を打ち切られては、何にもならない。これまでの借金も返せ
なくなると訴えたが、全く聞き入れられず、これまでの貸付金の返済
を迫られるだけだった。
新組合長の言い分は、正木氏個人がやったことであって、組合と
しては承知してない事項だと言うのである。だから、正木氏が亡く
なったので、そのような個人的ないきさつは、組合として責任が
取れないとのことだった。
 
理屈は分かったが、経営のことを考えれば、お先真っ暗だった。
餌はあと2日分ぐらいしかない。
農協には餌代金のほか、ケージ代金などかなりの借金があった。
農協には、借金分を手形で支払うから、とりあえず餌を納入して
ほしいとと言う提案は認められなかった。
 
私はこれまでずいぶん辛い経験をしたが、それらは自分一人が
耐えることでなんとか凌ぐことが出来た。
今回は千羽を超える鶏と、家族がいる。自分一人の問題では
なくなった。
どんなに辛いことがあっても、夜眠れないと言うことはなかったよう
に思うが、この時ばかりは眠れない。
朝方まで考えても解決策など浮かばなかった。
いくら考えても時間の無駄だ。それよりも充分に睡眠をとることに
しようと開き直った。苦しんだ挙句の結論だったが、その時の苦しみ
が、その後の私を救うことにもなった。
明日が分からない。目の前には暗雲しかない。そんな局面で何を
考え、どう行動するか。崖っぷちに追い詰められた時、どうしたら
いいのか。苦しみは人を強くする。苦しみは、乗り越える力を与えて
くれるものと信じている。
 
遂に餌がなくなり、朝早くあぜ道の草を刈り鶏に与えた。そんなもの
が役に立つはずもないが、じっとしていられないから、やるだけの
ことはした。鶏には一日2度の餌を与えることになっている。夕方の
餌を与えないと毛換えを起こす可能性大である。
いよいよ一巻の終わりか。これまでの数年間の努力は水の泡と化し、
多大な借金だけを抱えることになる、
 
あちこち餌を探し求めた。ある店を訪ねた。これまで知らなかった
店だった。飼料も扱っていると言う程度の店だった。経営者に
毎月1カ月先の手形払いと言うことで、餌を売ってくれないかと
懇願した。これまでのいきさつも話した。
私には、僅かだがたった一つだけの財産があった。自宅と養鶏場
と千羽の鶏だった。だから、1カ月先の手形払いなら心配なかろう
と思って下さったようだ。
一気に救われた。生きた心地がした。天にも昇る心地だった。
苦しんだ後の喜びだった。捨てる神あれば拾う神ありだった。