中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(63)

「婦人服オーダー」
 
 当時、立体裁断で知られた伊東衣服研究所は、元妻が通って
いた学校で、彼女は優等生でもあったので、校内の特別職業
ルームで働いた後、心斎橋大丸の西側にある専門店で働いて
いた。私が住吉公園で寒空の下、野宿をしていた当時、彼女は
その店で働いていて、住吉公園近くの親せきの家に身を寄せて
通っていた。彼女と結婚して、二人の間に子供ももうけながら、
別れることになった原点は、あの頃にあるのかもしれないと思う。
当時、すでに結婚を約束していた中だったが、寒空の下、野宿
している私に彼女は冷ややかだった。私は、そんな思いを心の
底に長い間、引きずっていたに違いない。
彼女に非があると言うのではなく、母性愛に飢えていた私は、優し
さにも飢えていたからだった。何もなくてもいいから、優しさだけ
が欲しい、それが私の心の底に長く続く願望でもあって、失敗の一因
でもある。そしてまた、人様に優しく接したいという行動にもなって
いる。ついでに私の「優しさ」定義について書くと、ある女性は、
とてもボランティアに熱心で、その行動力は献身的であり、尊敬に
値するものだ。ところが、彼女と電話で話して話したあと、「じゃ
あ・・また」とかなんとか終りの挨拶をした途端に、がちゃん!と
電話が切られる。
それだけで私は、それまで和やかに話してきた雰囲気も全部吹き
飛んでしまい、むなしい気分になる。私は決してそんなことをし
ない。電話で話し合えた後、1・2・3程度を明けて受話器を置く。
多分、彼女はこれまでにつらい体験のない人に違いない。一方的に
人に尽くしてはいるが、ご本人には辛い体験がないのかもしれない
と思ってしまう。
 例えば今日、電話で講演会の申し込みが30件ほど一気に殺到した。
申し込みを受け付けると言う事務的な態度ではなく、なるべく相手に
やさしく、相手の心に触れるようにと心がけている。もちろん、そん
な気遣いが通じているかどうかは分からないが。
 
 元妻が製図をしている姿をそれまでによく見かけている。服装の
製図は幾何学に強い人には有利だろうが、私は幾何を得意としない。
数学に強くないと経理が出来ないと考えている人が多いが、数学と
経理は全くの別物である。数字を使うと言う点だけが同じだが、考え
方が違うので、数学の苦手な私でも経理が出来たと言うわけだ。
 人間の体は立体的にできている。しかし、紙の上に製図すると平面
となる。平面上に立体的な製図をどう表現するかが腕の見せ所なのだ。
学校で習った製図法だけでとても十分とは言えないのに、服飾専門学
校に通った人たちは、それ以上に研究しないでいる人が多い。私は、
伊東式、ドレメ式、上田式などいろんな本を研究して、独自の製図法
を考えだした。どれかに偏るのではなく、どの式にも共通しているも
のは何かを考えた。洋服の先進国である欧米には「**式」などと言
うものがないことも知った。生け花、茶道など日本流の家元制度的な
ものが洋服の世界にもあったと言うことである。未だにその傾向が残
っているのが不思議だ。
 下山手通りと鯉川筋の角というすばらしい場所で開店したものの、
仕事がない。そんなある日、近くで紳士服生地の卸商をやっている
会社の奥さんが、舶来生地専門のプレタポルテを製造販売していて
、私に裁断を依頼してきた。その頃に、それまでのオーダー一辺倒
からプレタポルテへの流れが生まれていたが、やはり既製品イコール
安物というイメージが残っていた時代だった。
 彼女は、高級舶来生地でプレタポルテを作って時代の先取りを考え
ていたようだった。高級舶来生地と言うのは、反物として巻かれた
ものではなく、「着分」として売られていた。ダブル幅、シングル
幅の生地によって長さは異なるが、ワンピース、スーツ用として
最小限にカットして売られていた。
 彼女がデザインし、製図したものにカットされた高級舶来生地を
添えて持ってくる。一回に10着分とかを持ってきて、明日までに
裁断をと頼まれる。ここから説明するのがむつかしい。製図も大変
だが、何より難しいのは裁断なのだ。生地の長さがすでにカットさ
れていて余分がない。デザインが込み合っていると、柄を合わし、
生地の上下方向を合わせながら、少ない生地の中ですべてを完璧に
やらないといけない。もし彼女が、私がまったくの素人だと分かっ
ていたら、あんな高価な舶来生地を10着も持て来なかっただろう
とおもう。自慢になるが、もちろんバッチリやってのけた。人は自
慢話を聞くと「またか」と言う。その時、私はこう言う「自慢話が
出来るような人生を作り出せよ」と。裁断の仕事は元町通りに店を
移転させるまで続いて、経営の支えとなった。当時38歳だったと思う。