中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(15)私を守ってくれたのはだれなのか

《淡路島に移る》

大阪から淡路島に移されること、祖父母の家から学校に行くことになると優子叔母の口から伝えられた。

だから、これからは決して「お母ちゃん」と呼ばないようにと、念を押されたが、わかっていることとはいえ、おかあちゃんと呼べないことの寂しさは胸をしめつけて苦しい。これで、お母ちゃんと呼べる人は、傍にいないのだなと、おもうだけで孤独感が胸をしめつけるのだった。

 

小学校入学のための勉強を、ちゃんと自分でするようにと言われた。叔母にもハーさんにも勉強は何も教えられなかったが、踏切のおじさんの処に通って教えを受けた。

いよいよ別れの日が来たとき、おじさんは涙を流して抱きしめてくれた。

『おじさんのことは決して忘れないからね。いろいろとありがとうございました。これからも勉強しますから』と手を振った。

 

叔母は、自分で「これからは、お母ちゃん」と呼ぶなと言っておきながら、ずっと寂しそうで、そわそわいらいらしていた。

いよいよ別れが来た日に、いつもとは違う口調で

『いつまでも、お前を守っているからね。ずっとずっとずっと守ってあげるからね』と言ってくれた。この言葉が僕を支えつづけたのだった。

 

大阪から、淡路島へは父が連れて行ってくれた。『これからは一人でも行き来できるように、ちゃんと覚えておきなさい』と言われ、網の目のように市内を走る市電の乗り継ぎ方、行先表示のみかた、大阪駅前に何十とあるプラットフォームの覚え方も詳しくおしえられた。

 乗り物にはとても興味があったので、メモしないでも簡単に覚えられる。住まいが安定している、次女の今里の真知子叔母の所への行き順も覚えた。三女の知代叔母は、しばしば居所が変わるので、今の住まいも知らない。

大阪駅から淡路島の志筑に行くには、省線省線国鉄、JRとなった)で神戸の元町駅までいって、ほぼ真っすぐに海のほうに向かうと中突堤がある。中突堤には、関西汽船の大きな待合室があってのんびり待ち時間を過ごせる。

大阪の市電で天保山までいって関西汽船に乗ることもできる。天保山を出港して中突堤に着き、淡路島へと向かうのだから。

大阪から省線明石駅まで行き、十分ほど海に向かって歩けば播淡汽船の乗り場がある。それに乗って淡路島の岩屋についてから、バスに乗って、背中がかゆくなるほどの、がたがた道を一時間ゆられて行く方法もあった。

 

その時は、関西汽船の「天女丸」という大きな船に乗った。デッキから階段を降りると三等席があり、乗客たちが、それぞれ輪になって、広がるように座っていた。一等席はなく、二等席はデッキの上にあるらしい。

しばらくすると、おじさんが盆に小さな茶碗を載せてやってきて、客の一人一人に茶を配ってくれる。なんとも香ばしい玄米入りのお茶で、乗船するといつも出されるようだが、どの人も志付のようなものは渡していないので、関西汽船の気配りのようだった。

 

いつのまにか眠ってしまい、どれほどの時間が経ったのかわからないが、目的の町の沖合に停泊したようだった。当時は各駅停船のようで仮屋、佐野、生穂の沖にも停船していたようだが、時間がかかりすぎるので、昭和十八年ごろには停船は志筑沖だけになったと思う。この時は昭和十六年だった。

デッキに出てから、父が

『ずっと向こうの正面の丘の上に家が一軒見えるだろう』と、なんども指をさしていう。やっとみつけて、見える、見えるというと

『あそこが我が家だ』という。

沖合から見たので、とても遠くにポツンと建っているように思えたものだった。

 

 船に横付けされたのは「伝馬船」といわれる木造の船だった。三十人ばかりが

本船から伝馬船に乗り移った。伝馬船に乗り移ってから「天女丸」を見上げると

こんなに大きな船だったのだなぁと、改めておどろいた。それまで船を見たことがなかったのだから。

二人のたくましいおじさんが伝馬船を漕ぐ。

一本の太い棒のようなものを、舟の小さな支点に乗せて前後に上手に動かすと

伝馬船が自在に動くのだ。じっと見ていると

『あれは、櫓(ろ)というものだ。あのように動かすことで、スクリュウーの役目を果して船が動くのだ。ああいう形の櫓は、世界的にも優れものだといわれているらしい』と父に教えられた。

父は何でも知っているのだなとおもい、すごい父だと得意げなきもちになった。

伝馬船が砂浜に着き、分厚い渡し板が陸地にわたされて乗客たちが順に降りていく。きれいな砂浜が左右にひろがっていた。 

海を見たいという僕の手を取って、父は水際までつれていき

『夏になったら海で泳げるぞ』といった。

三月中旬だったので、その日は晴れていたが水際はまだ寒かった。 

 

 

  海沿いに街並みが左右にずっと連なっていた。

下船した場所から街に向かって坂道を歩く。右手に洋館の三階建ての郵便局があった。

登りきった十字路の角に大きな書店と文房具店があり、十字路の斜向かいはバスの待合所になっていた。

そこからは平らな道が続いている。幅の広い道路で、中橋と言われる橋の周囲には食堂、衣料店、魚屋、下駄屋などが軒を並べていて、とても雰囲気がよかった。どの家も二階建てであったが百貨店を名乗る店もあった。田舎って聞いていたから、少し驚いた。

『ここを左に曲がると、旧道っていうンだ。このまま真っすぐに行くと新道だという。

 

 

『ちょっと学校に寄ってみようか』と近くの小学校に連れて行ってくれた。広くて大きな学校だった。木造平屋建てだが、とても大きな校舎に暖かさを感じて大満足した。

  『旧道を通っていこう』と校門正面を真っすぐに進み、突き当りが、さきほどきいた旧道の続きだった。

道幅は新道より狭いけれど、さまざまな商店が連なっていた。大きなお菓子屋さんが二店もあり、薬局、時計屋、八百屋さんもある。

三叉路に自転車さんがあるところで左に折れて進んだ。

こっちへ行ったら「八幡神社だ」という角地に歯医者さんの洋館が見えた。大阪で見慣れた洋館をみると、田舎じゃないみたいと思えたから不思議なものだ。    しばらく進むと、先ほどの新道がこちらのほうにカーブして来ていた。

 

新道沿いに建てられた家並みの裏側は、突然に一面の田んぼが広がっていて、麦の穂が大きく育っていた。

『ほら、あそこに船からみた家が見えるだろう』と、正面の高台を指さして父が言った『あれが我が家だ』と。

道の右側には溝があった。『田んぼに水を配るための溝だけどな、年中ちょっとは水が流れているからな。ここには、メダカもおるしカエルもおる。蛇もおるデ、きいつけや』という。

 

歩いてきた道は左にまがり、溝に沿ってまっすぐ伸びている道は狭い。その場所で父は

『ここはな、三角田(さんかくだ)というてな、キツネや狸が居るって有名な場所やデ』と教えてくれた。

メダカやカエルは楽しそうだが、キツネや狸の話を聞いては、なんだか気持ちが悪くなった。

溝伝いに道がつづき小さな石橋を渡って右に曲がり、また左に曲がって急坂が見える。

坂の手前の右に門構えで中には蔵も見える家がある。「ここは、中元さんというおうちや、みんなは、あんの下と言っている」と聞いたが、門がこちらを向いてないので家の雰囲気はわからない。

 

その時は、まさか、ここに二十年後に自分の家を建てることになろうとは、思いもよらないことで、不思議なめぐりあわせの人生がここにも待っていた。意図しない流れの中で人生は流されるもののようだ。

 

急な坂を上ると大きな池があった。「これは大蛇池っていうネン。たくさんの田んぼの水を賄っている大切な池や」と。

右に高い石の塔が見えたが、父はなにも言わなかった。十一歳で世に出た父には十三重石塔など、何の関係もなかったのだろうか。

池のそばの狭い道を進むと、池に注がれる水を取り込むための用水路の橋があり、それを渡ると「この坂の上が我が家じゃ」急坂が二つ続いたので結構しんどいがやっとたどり着いた。父の言う「我が家」に。