中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(7)私を私を守ってくれたのはだれなのか

 祖母は、街に出るのが好きな人だった。だから祖父がいつも「帰ってくるのがおそい」とぼやいていたものだ。

 家を出て十分ほで街に入る。この街は、田舎といえども当時は八千人近い住民がいて、近在の村々から買い出し目当ての人々が多く来て賑わっていた。

 醤油も味噌もこの町の大きな工場でつくられていたし、農家がそれぞれに作る味噌や甘酒のために必要なコメ麹工場もあった。この町に来れば生活用品や食料品が何でも揃う、商工業の街ともいえた。

 田舎の割に大きな書店があり、文房具店は三つあり、公衆浴場は四箇所あって生活拠点としてはすこぶる便利な街だったのだ。

 町の中心に、淡路島では大きいと言われるⅮ信用金庫がある。 その信用金庫のすぐ左に小さな門があるのだが、注意していないと見過ごしてしまいそうな佇まいだった。

門を入り、信用金庫の壁に沿って奥へ進むと一軒の家があった。そこが、元庄屋さんの忍頂寺さんの家だった。

 祖母は玄関を入り、しばらく話をしていたが、

『今はね、ご本家さんたちは大阪に移ったらしい。うちの過去帳なんかは全部引摂寺さんに引き継がれているんだそうだ。だから、もしお前が、いつか何か知りたいと思ったら引摂寺さんに行って聞くとわかるそうだよ』

 敷地の形から、信用金庫がある場所も、元は庄屋さんの敷地だったのだろうと思った。

 祖母の買い物に、荷物運び役としてお供して、博識の祖母の話を聞くのが好きだった。

 中田村という隣の村から16歳で嫁に来たという祖母は、武士の娘として育ち、嫁に来るときは短刀を持たされてきたことをいつも自慢していて、とてもプライドの高い人だった。

 明治維新からの年月を考えると、武士の娘ではなく孫娘だったのだろうと思うが祖母はいつも武士の娘を誇りにしていたのもだった。

 先祖は阿波藩の武道の師範だったと祖母は言うが、本当かどうかは分からない。

確かにそのあたりの田舎のおばあちゃんたちとは、所作も違っていたし、教養もあり、子供たちへのしつけも厳しかった。

 祖母が奥山家に嫁いだのが十六歳であり、最初の子供を産んだのが十八歳。それが私の父だった。年子なしに産み続け合計十一人も産んだのだからすごいというほかない。

 厚生大臣から贈られたという、とても大きな額に入った表彰状が表の間に掲げられていた。

 家の戸や障子の開け閉めの音や足音、話し声など、いつも静かで、音をたてないようにと厳しくしつけられたものだ。大きな音を立てるのは下品なのだといつもうるさくみんなにしつけていた。

 祖母は、叱るときに大きな声を出すことは一度もなかったが、間違いを犯した場合、腕とか腿をひねるのだった。とても痛いお仕置きだった。

 

 だが祖母と、こうした楽しい会話をしたのは、終戦の年(1945年)の秋までだったようにおもう。 

そしてまた、祖母とこうした親しい関係であったのも、それから三年後辺りまでであったように記憶している。その理由も読み進んでもらえばわかってくださるだろう。

 街を南に突き抜けると、そこは海だった。 家から海までは歩いて二十分ちょっとはかかる。

 当時は関西汽船の天女丸(てんにょまる)(淡州丸)など五百トンほどの客船が、大阪の天保山から出港し、神戸元町近くの中突堤を経て淡路島に客を運んでいた。