中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(9)私を私を守ってくれたのはだれなのか 

<祖父のはなし>

祖父は大酒呑で、これは我が家代々の習性であると威張っていたが、普段はとても静かな人なのに、一旦酒が入ると様相が変わる。

街とは集会で酒を飲み、帰宅したときは衣服が濡れているので、祖母が問いただすと、三角田の狸に騙されたという。

月夜以外は夜は暗くて道が見えにくい、分かれ道の細い道を歩くのは容易ではなかったのだから、酔っぱらった祖父が、キツネや狸に騙されても不思議ではない。

祖父が乱暴することは、ただの一度もみたことがなかったが、酒を飲むと声が大きくなって大声でうたを唄う。

歌舞伎や浄瑠璃の声色(こわいろ)をやり、果ては大黒柱と相撲を取る。

歌舞伎や浄瑠璃の声色は、見事なほどに上手だった。歌舞伎や浄瑠璃は見たこともなく、知らない私が、祖父のセリフや声色で覚えたほどだった。

今風でいうとカラオケをやっているようなものだろうが、カラオケ以上に歌舞伎や浄瑠璃の声色は難しいと思える。

そして必ず次のように自慢をして終わる。

「痩せても枯れても奥山誠吉、近衛連隊(師団)第XX」と名乗るのだ。

 

祖父が若かった頃に、明治天皇を護衛する近衛師団に所属していた。

近衛師団に入隊できるのは、町で一人いるか、どうかというほどで、厳しく選抜された者だけが近衛師団に入ることが出来る。

由緒正しき家系でなくてはならなかったらしい。平素の行いもよくなければならない。

祖父にしてみれば、近衛師団の一員だったということが、生涯の自慢でもあったのだろうとおもっている。

 

 

 <ぼくの来歴>

 

 ぼくが祖父母の家に来たのは六歳のときだった。産まれたのは大阪市西成区梅通の産科医院だった。静かな通りに面した医院だ。

母の胎内で九ヶ月の時に、歴史に残るほどの最大級台風の「室戸台風」が直撃し、住んでいた家の近くまで高波に襲われ、母は大きなお腹を抱えて、腰まで水につかりながら逃げ惑ったと言っていた。

 

幸せ絶頂だったはずの両親が、それを維持できなかったために、わたしが祖父母の家に来ることになったのだった。

父母が別れることになったのは、わたしが二歳半になったばかりの頃だった。

 

 

先祖代々の大酒呑みを自慢していた祖父は、酒が入っても、どちらかというと楽しい酒であったが、父の場合は、たちの悪い酒だったともいえる。

母にも要因があったと祖母は言う。

祖母によると、まだ一歳未満の子供が、夜中に悲鳴のような声で泣き叫んで寝付かない。火がついたような泣き声だったらしい。

たまたま淡路島から来ていた祖母がひょいと見ると、靴下のゴムが足首に食い込んで、化膿していて膿がでていたという。

いつから靴下を交換してないのかと母に問うと、さあ、四、五日ぐらいかなといったそうだ。祖母は「赤ちゃんを、そのあいだ洗ってもやらなかったのか」と激怒したらしい。

「お前のあのときの傷は酷かったよ、足首の骨が見えるほどだったから、傷跡が残っているんじゃないか」と十歳ぐらいの時に、祖母が思い出したように言った。

私は傷跡の原因は、その話を聞くまで知らなかったが、両足首にどうしてこのような傷跡があるのだろうと、ずっと思っていたが、祖母の話を聞いて『そうだったのか』と思ったことを覚えている。八八歳の今も残る傷跡というのも凄いが、今となっては、母を思い出す記念品でもある。