「雨露を防ぐ」という言葉があります。
産物によっては雨と露を防がねばならないこともありますが、人が生きていく上でも(雨、露)から身を守らなければ健康を損ねて命まで奪われてしまうのです。
最近の人たちは(雨、露)をしのいで生きるなんて考えたこともないかもしれません。
軒下を借りてでも、雨、露をしのいで生きてきた人は、昔にはいたでしょう。
1ヶ月に及ぶ厳寒での野宿生活は悲惨でした。
もし働く場所が見つかったときに備えて、身だしなみをきちんとして置かなければ、と思う気持ちでいたために熟睡も出来ない日々だった。
馬のように立ったまま眠ることが多かった。
さて、5年間も無沙汰していた祖父母の許に戻りました。
見知らぬ女性がいました。
父の末弟である叔父が結婚していたのです。
二人の叔母が居ませんでした。
叔父が結婚したことも、叔母二人が嫁いだことも私は知りませんでした。
それまでの私の居所は知らせてあったし、母と再会したことも知らせてあったが、家族の結婚の話などは何の連絡も受けてなかった。
毎日、食事に事欠くことがなくなり、少しずつ身体も回復してきましましたが、手元にお金がありません。
このような場合にも、祖父母にお金を貸してとは、絶対に言えない私でした。
父が祖父母や姉妹たちに金を借りたことを、これまで何十回も聞かされ、父を批判し、その息子の私も同類になるのではないかと言われ続けてきていたから、私は決して身内から借りないぞと肚を括っていたのでしょう。
近所の中学生3人に声をかけて週に二度、英語を教え始めていました。
ここから先を書こうとすると、(あの場面、あの言葉)を思い出すので辛いのですが...。
そんなある日、家に戻ってから約一月ほど経った頃の午後3時頃、祖母が私を牛小屋の前に呼び出しました。
「お前のことは、嫁さんを迎えるときに、相手の家に言うてないのや。」
(説明しないとわからないでしょうね。叔父に嫁を取る話の時に、私のことは何も相手側に伝えてはいない)
(本来は、竈門の灰までお前のものだと言われ続けた跡取りの立場だった私が戻ってきては困るのだ、といういになのです。)
この言葉を聞いて、私は5分後には家を出ました。
家を継ごうなどとは思ってもいませんでしたが、
私を完全に無視した言葉に唖然とし、口答えさえせずに家を出たのでした。
私の存在、人格も全てが(否定)されたように思えたのです。
存在そのものを消されてしまったと思えた。
夜が迫ってくる時間帯だったので、とにかく今晩の寝る場所を探さねば。。。
お金がないからはじめた中学生たちへの英語指導も2度しかやっていない。
とにかく大阪へ戻りたいが金が無いから、兎に角も働いて金を貯めなくっちゃ。
翌日直ぐに仕事が見つかった。
旋盤工見習いだった。
ミシン部品製作工場だった。
手先が器用だったのか、一週間も経たないうちに本雇にしていただいた。宿は2階の間借りをした。
夜には、そろばん塾へ行ってソロバンを習った。
それが将来に大きく役立つとは思ってもいなかったが、運命とは不思議なものなのです。
思い出すだけで苦しくなる話を、早書きで記しました。
あの(父の子)が立派に育って、父の汚名をそそいでやろうと執念のように思っていた年頃だった。
絶対に酒は飲まないぞ!!と、心に決めた時でもあるます。
曽祖父、祖父、父、父の兄弟たち(一人を除いて)
は大酒飲みだった。誰もが酒に弱いから、飲めば崩れる。酒に呑まれる体質だった。
母との離婚もそれが原因だったと聞いている。
代々の大酒飲み一家は、いつの日か、酒で終わってしまうだろうから、私は飲まないぞと決めた。
よほどの場合に少しは付き合うが、今でも飲まない。
今思えば、6歳の頃から孤独だった。
それにめげずに頑張って来たことを、自分で褒めています。