中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(28)私を守ってくれたのはだれなのか  父還る

 《父がシベリア抑留から帰還》

 当時の新聞には、シベリアからの帰国者の氏名が日々報道されていた。それを、目を皿のようにして何年間も見続けている。校門そばの菅新聞販売所で新聞を受け取り、歩きながら帰国者氏名欄を見る。

その日もそうだった。小さく書かれた氏名欄に父の名が載っていた。何度も確認してから、息が切れるほどに走って家に戻った。「お父さんが帰ってくるぞ」と叫んだ。

 すでに電報が届いていて、みんな知っていた。電文は「明日帰国、舞鶴港に入港」だった。

 歌謡曲の中に「岸壁の母」という二葉百合子さんの歌がある。「今日も来ました 今日も来た この岸壁に今日も来た」

毎日、まいにち息子の帰ってくる姿をもとめて、舞鶴港の桟橋に迎えに行くという歌詞で、多くの人たちの涙を誘った歌なので知っている人も多いだろう。

  「明日帰国、舞鶴港に入る」という電報が届き、出迎えには祖母と僕が行くことになった。明日の早朝に出発しようと決まった。

 だが、一時間も経たないうちに次の電報が来た。

 「入港後、ただちに国立舞鶴病院に入院」と。

 いったい何が起こったのだろうと、みんなが口々に言う。

『急に決まったのだろうから、盲腸かもしれん』とだれかがいい、国立病院なのだから大丈夫だという。

  翌朝、祖母と出発したが「なにがあったんだろう」と言うばかりだった。大阪から福知山を経て山陰線で向かった。トンネルが次々と現れ、暑さしのぎで開けられた窓から機関車から吐き出される煤煙が入ってくる。汗が出るので顔を拭う、五十か所以上もあるトンネルをくぐって誰もが真っ黒になった。

  国立舞鶴病院は、終戦時まで海軍舞鶴病院と言われていたようで、とてもきれいな病院であった。

 父は、入港と同時に病院へ運ばれ、すぐに胃がんの全摘出手術を受けていた。医師から、野球のボール大の癌ができていたとの説明があった。

  『ずいぶん長い間、ご本人はこの病気で苦しまれたのではないかと思います』と、医師がおっしゃった。

 胃がんがここまで大きくなるには数年以上の苦しみの末でしょうねと。極寒のシベリアでなんの医療も受けられない中で苦しみながら、日本の土を踏む日を待ち続けていたのだろう。

 何よりも、息子がどれほど成長しているのかを楽しみに生きてきたのだろう。

  再会もゆっくり話せず

 病室に入ると、術後一日も経っていない父は眠っていた。胃がんというものがどんな病気なのか、予後はどんなものかも知らない二人は、手術したので治るものだと思っていたのだった。父の顔はむくんでいて、以前の面影はない。

 目覚めてからほんの少し話したが、何を話したか記憶にない。

父は、じっと息子の僕を見ていた。

 夏休みが終わるころまで僕だけ病院に残り、祖母は帰っていった。いま思えば、学校など休んで、もっと父のそばにいたかったが、それは許されなかった。

  ロシア語、カチューシャの歌

『あんまり覚えてないが、ロシア語を教えてやろう』と父がいい

『英語のグッドのことはロシア語では、ハラッショというのだ、ベリーグッドは、オーチンハラッショというんだよ』「ハラッショ、ハラッショ」というと露助は喜ぶのだよ。あまり賢い露助はおらなかったな~。日本兵から腕時計を取り上げておいて、止まると、直してくれってもってくさかい、明日までに直すといっておく。ネジを巻くだけなのだけどナ。

露助は黒パンのかけらを持ってきて時計を持って帰る。そういうことで、なんども空腹が満たされて助かったものだ。

『歌も一つ教えてやろう』と、当時日本でも流行っていたカチューシャの歌をロシア語で歌ってくれた。

その時に聞いたロシア語の歌詞はこんな風だった。

< ラ-スベタリ ヤブニグルーシ アープレリート マニナドレコイ 

ヴィファージーイラ ナベリ カチューシャ ナービソービ クレナクルトイ>

 75年前に覚えたままで、これが正しいのかどうかも調べたこともない。でも、ときどき家の中で歌っている。これまでの人生の中で、十回はみなさんのいるステージで歌ったことがあるようにもおもう。

《 忘れられない父の風呂場での一言 》

 どんな会話が交わされたのかも記憶にないが、一つだけ良く覚えていることがある。忘れようにも忘れられない会話だった。

一緒に風呂に入る機会は、父の帰国後、初めてだった。

父と子が一緒に風呂に入ったのは何年ぶりであろう。

父は、シベリアに抑留されていたいた苦しい間も、息子がどれほど立派に育っているのだろうかと日々思い続けていたのだろうとおもう。

父の胸から腹にかけて、手術の大きな傷があった。

 父が僕の身体をじっと見て

こう言った。

『なんじゃそのチンポは、唐辛子の三番成りみたいじゃな」と、ぼくの股間を見て呟いたのだ。

 僕はこれまでの重労働がこたえたのか栄養不足か、背が伸び悩み、性的発達も遅く、体も貧弱だった。

父はシベリアの厳しい環境の中で働きながら、指折り数えてわが子の成長を想像していたことだろう。ぼくの股間を見て、子供の未成熟を知ってがっかりしたようだった。 

おれはな、お前の年では女を知っていたんだぞと、悲しそうに言う。

 池の小屋で鯉取りの寝ずの番を近所のおじさんたちとしていた時も、「まいにち、こいてるか、まいにち何回やってるんや」などと卑猥らしい話を持ち掛けられても、さっぱり意味がわからなかった。

 舞鶴病院での父との会話で、この一言しか覚えてないというのは、父がそれに次いで言った言葉があるからだ。

「俺はお前のころ、女郎屋に通っていたぞ」と言った。まだ女郎屋という言葉も知らないぼくだった。

 父は夢にまで見たであろうわが子の未成熟に、情けない思いをしたのだろうと思うが、ぼくの晩熟(おくて)は二十歳まで、目覚めることはなかった。

 夏休みは終わり、後にも先にも父と子だけの会話は終わってしまった。

 

  父は大阪に転院

 父は二か月後の秋に、大阪の上本町筋にある国立大阪病院に転院した。大阪だからいつでも会いに行けそうだと思ったが、その機会は一度しかもらえなかった。

 梶原先生が家まで来てくださり、祖父母にぼくの高校進学を強く勧めてくれたが、祖母はきっぱりと「それはできません」と告げていた。

梶原先生のご支援がとてもうれしかった。担任だったのは三年前のことなのに、いつまでも支え続けてくださったのだ。梶原先生は、その後に津名中学校の校長になられた。

祖父母は、父が帰国したときに、父の先の短いことを悟り、ぼくを家に置かない決意を固めていたのだろうとおもう。

 あとでよく考えると、父が胃がんで帰国したときに、ぼくの運命の一部は決まっていたということだろう。