中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

絵入り日めくり言葉から(2)

 今日の言葉は、ひとりじゃないよ、です。

何もかもが順調にいって いるような時でも 突然急に 寂しさを感じる事って誰にでもあると思います。  そういう時に 一人ではないよ あなたの側にはいろんな人がいるよ というような声が聞こえてくると 心強くなるのではないでしょうか。

 私が小学生から中学生の終わりまでずっと孤独感の中で過ごしました。 二才の頃、母親が映画館で祖母に私を託して消えてしまったのでした。

 その原因は父の酒乱だったと聞かされています。

今考えれば 父の時代は大変だったと思います。 父は 小学生を終えてすぐに淡路島から大阪に出て働いていました。  当時は小学校に通った子どもは

少なかったようで、小学卒業と言うのは立派な学歴でもあったのです。 

 父が二十歳になる頃はニューヨーク発の世界大恐慌が日本を襲いましたので大不況になってしまいます。

二十歳になった時に 召集を受け 日中戦争に 駆り出されます。 中国での戦争は 日本軍の 野蛮な行為に 父は辛い思いをしたと語っていたことがあります。 帰国後に 母と知り合い 私が生まれることになったのですが, その頃に先祖代々大好きな お酒に溺れていったのだと思います。

父はその後 運輸会社に 努めますが 、またもや 軍から 徴用 されて川西飛行場に 勤務していました。

川西飛行場を しる人は 今では少ないでしょうが 甲子園球場の 近くの 競輪場を 改装した飛行場で, 父がいた頃に私はそこに 2泊したことがあります。

戦争末期のことで 飛び立つ飛行機を送り出す人々が 悲壮な顔をしていたことを思い出します 。

その後 、父は2度目の召集を受け 朝鮮半島へ 送り出され, 終戦後は シベリアへ 送られて 過酷な労働をさせられることになります。 5年間も シベリアの厳寒の中ですごし、やっと 舞鶴に たどり着いた夜に 胃がんの 手術を受け 半年後に 死亡しました。 ですから 父の場合は 帰国はしたのですが 戦死扱いとなっています。

 このように 父親の一生を振り返れば 、日中戦争第二次世界大戦に振り回された生涯だったと思っています。

青春時代も何も 無かったような 過酷な一生だったように 思わざるを得ません。 酒に溺れた 父を責める気にはなれません。 また 私を 置いて出て行った母を責める気にもなりません。

 私は、父の妹に四年間愛されて育れてられたあと、淡路島の祖父母のもとで中学校までを過ごしましたが、心の中におおきく存在しているのは、愛し育ててくれたお母ちゃんです。父の妹です。

これまで多くの人たちの言葉に救われて来たことを改めて感謝しています。