中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

おじいちゃんの(貴重な)戦争体験(6)

  小学3年生で飛行場内で一泊し、翌朝には戦場に飛び立って行く飛行機を
目の当たりにしたことは、今となって考えるととてもすごい体験だったと思う。
父が軍属として働いていた川西飛行場へ面会に行ってまもなく、父は再び徴兵令
によって軍隊に駆り出された。
 20歳で徴兵され兵歴のあるものは予備軍となり2度と招集を受けないものと
思われていただけに、2度目の徴兵を行わなければならないほど当時の日本は
兵隊が少なくなっていたのだろう。人々は口々に「38歳のものを招集するように
なれば日本も終わりだな」と陰でささやいていた。
 父は招集されて、姫路の連隊に入隊した。兵庫県では姫路が連隊本部となって
いたからである。
 忘れもしない昭和20年3月13が目の前に迫っていた。
連隊にいる父と面会できることになったので、3月12日に淡路島から祖母が私を
連れて姫路に向かった。祖母にとっては父は長男である。姫路にある親戚の家に
泊めてもらうことになった。祖母の妹の息子夫婦の家だった。ごく最近のことだが、
この夫婦の子供と再会する機会があった。もちろん彼は姫路のことは何も覚えていない
ようだったが。谷上という名のその親戚の家にお世話になって、当時の食糧事情の
極悪さを知った。
 私が育った淡路島の家は農家であるにもかかわらず、食糧事情はよくなかった。
今では、ごく当たり前のようにして食べている白米のごはんなど、年に2,3度しか
食べられなかった。毎日のご飯は8分搗きの白米に麦を半分加えて炊いたものだった。
麦を押しつぶしたものを「押し麦」といい、そうでないものを丸麦と言っていた。
押し麦を入れたご飯は食べやすかったが、丸麦を加えたご飯は食べにくかった。
 タンパク質が大事などと今の栄養学では言うが、当時の田舎でそんなことを考える
人などいない。あるものを食べる・・それしかない。
今考えると、私がこうして育ったのは、程よくタンパク質を取っていたからだと思う。
コメを8分搗きにしていたのもタンパクを残すことにもなっていただろう。
家の下には巨大な溜池があった。100M X150Mほどの池だった。今はゴルフの
打ちっぱなし練習場となっている。
 その池でフナを釣り、焼いて身をほぐして酢味噌に入れておくととてもうまいおかずに
なった。夏になって池の水が少なくなってくると「カラス貝」を朝一に取りに行く。
砂浜のところに細く貝が動いた形跡を見つけて手を入れると貝がいる。バケツにいっぱい
貝を採り、ゆがいて食べる。しかし、カラス貝はうまくない。
 夏場には池の半分ほどを「菱」の花が覆うようになる。実が熟したころに実を取って
ゆでて食べる。よく熟した実は栗のようにうまかった。バケツ一杯を家族が囲んで
食べる。
 田んぼではタニシ貝を採った。この貝は味噌につけたベルトとてもうまい。田んぼの
そばの溝には「ドジョウ」いた。溝をせき止めてから、手を入れてドジョウを探し出し
ぬめりのあるドジョウをうまくつかみ取ってバケツに入れる。持ち帰ったドジョウは泥
くさいのですぐには食べずにタライに入れて泥を吐かせる。
 翌朝、大きな鍋の煮立った味噌汁の中に柄杓で掬い取ったドジョウを入れると「キュン」
というような音がしていた。食べるときは、ドジョウの頭を箸でつかみ、身の部分を上手に
食べていた。今の当時のやり方を覚えてぢる。
 カラス貝、タニシ貝、菱の実、ドジョウ、フナ・・などを食べていなければ私の体はどうなって
いたのだろうかと思う。
こういうものを、だれから採ってきてくれて、与えられていたわけではない。私一人でとるか
家族の誰かと一緒に作業して採っていた。
 さて、最初のところに戻ろう、谷上家でのことだ。その夜出された食事に驚いた。目の玉が
映るほど、米がほとんど入っていないおかゆだったのだ。今考えると、そういう事情も何も
祖母は考えていなかったのではないかと思う。わかっていたなら、ひもじい中からでも米の
1升2升を持って行っていたのではないだろうかと思う。米も持たずに一夜の宿をと思った
のがいけなかったのだろう。話の中で、谷上家の夫婦は恥ずかしそうに詫びていた。
当時の厳しい食糧事情は、かなり逼迫したものとなっていたのだ。
 翌朝、谷上家を出て連隊に面接にいった。面接時間は半時間ほどしかなかったように
思う。父が「たぶん1週間以内に外地へ送られると思う」と言っていた。
 3月13日、その夜にとんでもない恐ろしい戦争体験をする羽目になった。