中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

おじいちゃんの(貴重な)戦争体験(7)

 姫路の連隊で父との面会を済ませた祖母と私は、すぐ淡路に帰らずに
大阪への向かった。私を2歳半から6歳まで育ててくれた「育ての親」である
叔母の家に泊まった。
 私はくたびれ果てていたようだ。とても熟睡していたようだ。
当時の大阪では、毎夜のごとく「空襲警報」が発令され、「解除」されることが
習慣のようになっていたらしい。淡路島でも空襲警報があり、それが解除される
ことがあったが、それは練習以外の何物でもなかった。
大阪でも、人々は「また今夜もか」と思う毎日だったようだ。
 その日の深夜にも空襲警報が鳴り響いた(らしい)私が熟睡していたので
起こすのが可哀そうだとおもって、そのまま避難せずにいたらしい。
 ところがその夜は違った。大阪の第1回目の大空襲だったのだ。人々が逃げ惑う
音がして、やがて静かになったが、どうも普段と大きく違うことがあると思いながら、
今更出ていくのは恥ずかしいと息をひそめていたらしい・・・・・らしいというのは
私は眠っていて何も覚えていないからだ。
 空襲警報が解除され、人々が戻ってくる気配があって、私が起こされた。
そして「お前が眠っていたから逃げ遅れたのだ」と厳しくしかられたことを今でも
覚えている。
 やがて次の空襲警報が出て、私たちも防空壕へと避難したが、戸外に出て
その風景に圧倒された。空が真っ赤だった。恐ろしいほど空一面が真っ赤に染まって
いた。大火事の時に空が赤くなることがある。大阪で子供の時からなんども見たことが
ある。しかし、そんな生易しいものではなく、強烈に恐ろしい色だった。
 やがて不気味な爆音がきこえはじめた。最近は昼間でもその音を耳にする機会が
多かったので、すぐに何の音かがわかる。アメリカ軍のB29爆撃機の音だった。
どん・・どん・・どんと腹に響く音なのだ。
 その音がこれまで聞いた単発的なものではなく、ものすごい集団的な音だった。
そのうちに空から花火に様なものが落ちてきた。3尺玉と言われる巨大な花の打ち上げを
見たことがあると思う。とても美しい。空全体が花火で覆われたようになった。
 B29から投下される焼夷弾が花火のように見えたのだ。当時の日本ではビルが少なく
木造家屋が多い。だから、爆弾を投下するより焼夷弾を投下するほうが効果が大きいのだ。
焼夷弾には多くの油が入っていて、着弾すると同時に油が飛び散り発火する仕組みになって
いたので、木造家屋が焼けてしまう。爆撃機から投下されたものが地上100Mぐらいの
ところで散らばって落ちてくる仕組みになっていたらしい。5平方米あたりに1個ぐらいの
割合で落ちてくるから木造家屋は片っ端から燃えていく。
 私が避難していた近くに不発の焼夷弾が落ちた。それを防空壕に運んできた人がいた
のでることができた。これも貴重な体験だった。
 もっと悲惨は話を次回に書こう。