中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

おじいちゃんの(貴重な)戦争体験(8)

  B29爆撃機は何百という飛行機が群れを成して飛来し焼夷弾を投下
していった。一つの群れが攻撃を済ませると、しばらく間をおいて次の
爆撃機群が襲来してくるという波状的攻撃だったので、夜が明けるまで
防空壕の中で眠ることもなかった。
 恐ろしいほど真っ赤に染まった大阪の空と、巨大花火のように落下してくる
焼夷弾の軌跡は、68年以上経った今も脳裏に焼きついている。
 
 このままここにいると危ないからと、2番目の千恵子叔母のいる今里まで歩いて
避難をした。今里も大阪市内ではあるが、いくらか安全だろうという判断だったようだ。
昨夜の大空襲で大阪は莫大な被害を受けたために市電の運航も止まっており、
その他の交通機関の情報も全くないので淡路島に帰ることもできない。
 3番目の加代子叔母の消息がわからない。加代子叔母は北区のど真ん中に
住んでいたので被災したことは間違いないようだと、みんなが心配していたが、
探しようもない。
 今里に避難して2日後に家の外にいた私たちのまえに、ぼろぼろになった加代子
叔母がきた。おしゃれが何よりの趣味だった加代子叔母が、こんなにぼろぼろの
姿になっているのに、みんなが驚いていた。
 加代子叔母の話をみんなが真剣に聞いた。
空襲警報があって、間もなく焼夷弾が落ちてきてみんなが逃げ惑った。ところが、
外に出てみると、逃げる場所がない。防空壕などはすでに役に立たないものに
なっていたらしい。やや逃げ遅れた叔母が目の当たりにしたのは、周囲一帯が
焼けた熱で道路のアスファルトが溶け、逃げる人々の足が溶けたアスファルト
取られて死んでいくさまだったようだ。
 加代子叔母は「もうだめだ」と思ったその瞬間に消防車がきて、腕をひっぱり
上げられて助けられたということらしい。何もかも一切の家財、運行を再開していて、
淡路への船も出ているらしいということで、祖母と私は天保山へと向かった。
 上本町6丁目の交差点のところに差し掛かった時だった。
地理的に言うと鶴橋方面から上6の交差点に向かうと左側が近鉄上六駅である。
近鉄の反対側の角っこに、焼け残った?材木類を並べ、その上にたくさんのトタンを
並べ、そしてその上に死体が山と積んであった。大空襲で亡くなった人々をそうして
火葬してしていたのだ。
 想像してほしい。それがどれほど恐ろしい光景だったかを。たぶん、大空襲以後
何回もそうして死体処理をしてきたのだろうと思う。淡路への船は、米軍機からの
攻撃を受けないように、深夜に出港し灯りを消して航行した。いつもは港みなとに
着く船が、このときは1か所だけに着岸し、乗客はそれぞれ歩いて各地に帰って行った。
 この船に乗っていた乗客たちの中には、大空襲の被害にあった人も多かったこと
だろうと思う。大阪では8月までに8回の大空襲があり、多くの人たちが犠牲となった。
 3月17日には、神戸第1回大空襲が行われた。