大阪のど真ん中、上本町6丁目の角の近鉄百貨店の筋向いで、大空襲に
より犠牲者が野焼きされていたのを目の当たりにしたことは、何よりもショック
だったので、いつまでも忘れることができない。
淡路島に帰ってからも、大阪や神戸への大空襲の模様は、淡路島からも
空が焼ける色で知ることができた。
私の家は、町全体を一望できる高台にある。台所用水や風呂水のくみ上げには
大変な苦労が伴う急坂だったが、庭先から町を一望し、その先に大阪湾が広がり、
紀淡海峡に浮かぶ二つの島々までよく見えていた。行き交う大小の船が見え、
大阪の岸和田市から和歌山方面までの山並みもくっきりと見えていた。
その頃からB29は昼間でも堂々と飛来するようになった。次の空襲の目的地を
偵察するためだったのかもしれない。
B29の飛行する高度が高いために飛行機雲が発生する。当時の他の飛行機では
飛行機雲ができることはなかったように思う。
B29が、ど~~ん、ど~んという特有の音を発しながら2機とか3機が悠々と飛んでいく。
高射砲から発せられた砲弾はB29には届かず途中で破裂して落ちていくさまも観ていた。
時折日本の戦闘機が迎撃戦を挑むことがある、何度も見た中で、ただの一度だけ
B29を撃ち落とした瞬間を目撃したものだ。明石方面だった。たぶん、加西にある飛行場
から発した戦闘機ではないだろうか。
人々が知る情報は、新聞とラジオだったが、私の住んでいた近隣で戦争中に新聞を
購読していたのは我が家だけだった。(戦後は、疎開してきた人たちも購読していたように
思う)当時ラジオがあるのも我が家だけだった。
そのような状態だから、ほとんどの人は戦争の成り行きを知らないし、新聞やラジオも
本当のことは書いていないのだから、真実ではなかった。
しかし、いくら隠しても、だんだん戦況が悪くなっていることはだれもがわかっていた。
大阪の大空襲の体験から戦争が終わるまでの5か月間に、淡路島でも恐ろしいことが
起こっていた。