中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

映画・少年Hとおじいちゃんの(貴重な)戦争体験(10)

 映画・少年Hが話題となっている。作者の妹尾河童さんは私より4歳年長になるので、
妹尾さんがみていたものと私が見ていたものには共通点がある。
 何よりの共通点は、妹尾さんの家と私の母親の実家(海運長丁目)とは歩いて3分も
かからないという近距離なので、少年Hの映画に出てくる映像はセットで作られたもので
あっても当時の雰囲気が出ているだろうから、鑑賞すると懐かしさがこみあげてくるかも
しれないと期待している。(まだ映画は観ていない)
 「少年H」は、ドラマ化されたときにも観ているが、当時の一般的な庶民の場合は、少年
Hのお父さんのような考え方ではなかっただろう。
 この戦争は勝ち目がないということは田舎の人たちにも感じ始めていたことは間違い
ない。しかし、結果的にあのような無残な負け方をするとはほとんどの大人たちは
考えていなかっただろう。
 日本の首都東京が爆撃され、大阪、神戸、名古屋、福岡が次々と空襲にあって
焼け野原となっていくのだから、勝ち目があるなどとは考えられなくなっていた。
 昭和20年の6月ごろからアメリカの空母から発進するグラマン戦闘機が飛来する
ようになった。当時の少年は、B29やグラマンなどの情報をなぜかよく知っていたものだ。
 グラマンが襲来するようになったということは、日本近海にアメリカ空母がいるという
何よりの証拠なのだ。B29のように航続距離が長くはなグラマン航空母艦から発進
するので艦載機とも言われていた。
 グラマンが堂々白昼に大阪湾に現れ始めた。迎え撃つ日本の戦闘機の姿はなかった。
授業中に「空襲警報」は発令されると、学生は自宅に帰る。私の場合、学校から町並み
を通り、町並みを外れてから田んぼの中の道を約800Mほど通らなければならない。
 グラマンは、大阪湾から島の中心部に向かって飛ぶから、ちょうど帰宅中の生徒たちを
追っかけているかのような感じとなり、我々は田んぼ横の畔に飛び込んで隠れたものだ。
2歳年上の叔母の場合は、田んぼの隅に作られた「肥溜め」にはまってしまったことがある。
 当時はどの家も「汲み取り式」の便所だった。糞尿がたまると、汲み取って田んぼの隅に
掘った肥溜めに貯めていたものだ。貯められた糞尿は濃い茶色となり分厚いふたのような
感じとなって、知らない人なら足を入れてしまいかねない。叔母の場合は、うかつにはまって
しまったのだが、その匂いと言ったら糞尿そのものだから大変な騒ぎだったことを覚えている。
 空襲警報で帰宅するということは何度もあったが、グラマンに追っかけられる感じという経験
は恐怖だっただけに忘れられない。祖父がいうには、あれは追っかけているのではなく、
反転するために陸地に向かっているのだと。
 反転して大阪湾に出たグラマンは、航行中の機帆船を(当時は機帆船が多かった)を攻撃
し始めた。何度も何度も反転して攻撃し、機帆船が沈没させられた。私たち家族は、家から
その光景を目の当たりにしたものだ。あのような光景を目の当たりにした人は海岸際に住んで
いた人以外には知らないだろうと思う。
 間もなく終戦記念日が来る。
 次回から数回にわたって、あの無残だった戦争がなぜ起こったのか、アメリカは正義だったのか
を書いてみたい。これから先をぜひお読みいただきたいと願っている。