中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

どこで生まれ、どこで育ち、だれに育てられたのか

 人生とは多様であるだけに面白い。一人として同じ人生を歩んだ人は

いないだろう。たとえ双子であっても同じ人生にはならないはずだから。

 むかしは氏素性によって人生が左右されると言われたものだが、今の

世にあっては氏・素性はさほどの問題ではないかもしれない。

もちろん氏・素性の中にDNAの意味が含まれているとすれば、ある意味

では納得できる。もし、DNAによるものが、各人の人生に影響を与える

としても、環境によっても違いが出てくるだろうし、同じ人生にはならない。

 どこで、だれとだれの子供として生まれ、どこで、だれとだれに育てられ

たのか? どんな環境で育てられたのか? そんなことがたくさん重なって

人の人生を作っていくのだろうと思う。 たとえ、半生までは全く同じだと

しても、そのあとは、各人の性格によって運命は左右されていくだろう。

 そういうことを考えていると、「人生」なんてとても一言では言えない

ものだとおもえてくる。最近、街角や電車の中などでの親子を見ていて、

「人生」を考えることが多くなった。こんな親に、こんな育てられ方を

した子供は、どんな人生を歩むのだろうかと思ったりする。なかには、

素晴らしい親子もいる。もちろん、傍目にそう見えるだけかも知れないが。

 私の場合で言うと、恵まれた育ち方ではない。しかし、小学校1年から

中学6年生まで(途中で大阪に転校と言う時期もあったが)の9年間のうち

8年間は、淡路島の志筑町(現在の淡路市)という街の7割ほどが見渡せる

丘の上に住んでいた。志筑町は当時は約7千人か8千人かの町だった。その

街のほとんどが見渡せるという意味ではわが家しかなかったのではないか。

街を海に向かって真正面から見える位置にあった。 米軍機(艦載機)が

海上の機帆船を攻撃し、反転して山の方角に向かってくる様などもすべて

見えていた。 大阪湾で行われた海軍の観艦式の様子も見えていた。

町に住んでいても海の事はよく分からないだろうが、わが家からは大阪湾

を行き来するたくさんの大型船が見えていた。対岸の紀州の山並みもくっ

きり見えていた。 こういう環境で育つと、俯瞰する習慣がついてくる。

いろんな物事を俯瞰してみることが出来るようにもなってくる。 海が

どこまで続いているのか、どうなっているのかに興味があった。そういう

ことが、21歳の時にブラジル移民を考えることになり、県庁でのテスト

に受かり、100%移民が決まっていたのだったが・・行かなかった。

行っていたら、どんな人生になったのだろうか?とおもう。 それでも

海外志向はやまず、結局はカナダで1年間、豪州14年間を過ごすことに

つながった。 いいとか悪いとかはまったく関係なく、子供のころの

毎日、街を見下ろし、海を眺めてくらし、田んぼの中で空を見上げていた

日々が、私の人生に大きく関わったのかもと思ったりする。 豪州でも

アフリカまで見えますという(地球は丸いので見えるわけはないが、そう

いう不動産屋の触れ込みだった)環境の中に住んでいた。帰国して、いまは

六甲の中腹で、やはり対岸の紀州の山並みが見えるところに住んでいる。

やはり、俯瞰する習慣が消えないようなのだ。 世界を見る場合もなるべく

視野を大きく見る癖があるのも、子供のころからの習慣だとすれば、どこで

育ったかということも関係があるのだろうか。 いまは、どこに行くのか

行き先が決まっているので、その日を待つだけだが。