中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

超短いエッセイ(1)「三角田のタヌキ」

 原稿用紙で5,6枚、本だと3ページ前後の短いエッセイをしばらく連載
 します。目に負担がかかるので週に1度程度にします。
 エッセイとは日本では随筆と言われていますが、外国では小論文の意味で
 とらえることが多いものです。
 ここに連載するのは随筆です。思い出を中心にしたものを書いて行こうと 
 思っています。読み終わって、もし面白いぞと思ってくださったら「ナイス!」
 チェックを入れてくださいね。

『超短いエッセイ』(1)
 「三角田のタヌキ」
   
 三角田(さんかくだ)と呼んでいた田んぼがあった。我が家ではそう呼んでいたのだが、いま思い出しても、近所の人たちや子供たちなどが同じ呼び方をしていたのかどうか思い出せない。
僕の住んでいたのは淡路島にある志筑(しづき)という町だ。田舎なのだけど比較的なんでも手に入る街だった。公衆浴場は4つあった。街で手に入らないものはほとんどないとよいほどさまざまな商品を売る店が多く、近くの町や村から志筑に買い出しにくるというちょっとした田舎の中の都会だった。当時の生活程度から言うと不便を感じない街だったとおもう。大阪で生まれ6歳まで過ごした僕が不満を持っていたとすればクリームパンがなかったことだった。菓子パンが街で売られるようになったのは戦後に入ってからだった。
小学生のころの町の人口はどれぐらいだったか知らないけど戦後しばらくは8千人ほどいたように記憶している。町の多くは「街」であり、僕の家のように街を外れての農家は人口比からいうと少なかった。
僕が住んでいたのは「天神」という地域である。毎年101日に行われる天神祭には、京阪神へ働きに行っている家族や親類の人たちが里帰りをする日でもあった。正月やお盆、春、秋の彼岸の日にも里帰りする人はいたが、私の記憶では天神祭に里帰りする人が多かったように思う。通りには出店が30ほど出ていた時期もあった。30センチほどのサトウキビを買ってみたが、水分もなくまずい代物だったという思いでもある。
1015日には近くの八幡神社の祭りもあった。どちらの祭りにも8台~10台の「だんじり」が境内に並んで賑わった。巨大な座布団を積みあげた感じの「だんじり」だった。美しく刺繍された垂れ飾りの中には太鼓が据えられており四方に4人の子供が座れる。その中で太鼓を叩ける時には天にも昇る心地だった。「だんじり」はかなりの重量のものであり、若い衆が担いで練り歩く姿は勇ましかった。昭和25年ぐらいまでは若い衆同士の喧嘩まで話題となっていたが、喧嘩というようなものをしなくなったころから若者が都会に出て行って少なくなった。今では10月の第1日曜日が祭りの日と定められている。昨年何十年ぶりに行ってみたのだが、「だんじり」は1台だけで寂しく、昔の素晴らしい思い出まで失った気分だった。
この街には多くの思い出がある。学校からの帰路、かまぼこ、ちくわ作りに見とれたり、竹細工の巧妙な手さばきにみとれたり、せんべいを焼いているのを後ろでじっとみていたり。鍛冶屋ではフイゴの扱いや鉄を叩く音を楽しんだ。童謡の村の加治屋さんの風景そのものだった。
いくつも思い出があり、それらはみんな今でも僕の中に生きている。なにごとも熱心に観たものは無駄にはならないものらしい。道草も素晴らしい財産になるっていうことかもしれない。
街の中ほどにある学校から寄り道しないで15分ぐらい歩くと街並みを外れる。奥野さんという飼料や肥料を扱っている自宅と倉庫の間を抜けると、そこから僕の家が見える。僕が住んでいた家は高台にあるのでまだ六百メートル以上もある距離なのによく見える。
県道からはずれて幅3メートルほどの田舎道を北に向かってしばらく歩くと、その道は左に曲がる。その地点から幅が70センチもないような畔(あぜ)道がまっすぐ伸びている。田舎道とあぜ道に挟まれた格好で「三角田」が存在する。柴谷さんという方の田んぼだった。広さは1反ほどあったのだろうかと思う。その三角田にタヌキがいると祖父がいう。何度もなんども聞かされた話だった。
月のない夜には、県道から奥野肥料店を過ぎ田舎道に入ると、そこは真っ暗な世界だった。闇夜というけれど、ほんとうに暗くて何も見えない。街の明かりから突然に真っ暗な道に入ると方向感覚さえなくなってしまう。だから、しばらく立ち止まって星の明かりに目が慣れるのを待つ。するとぼんやり、やがて白く田舎道が見えてきて歩き出せるのだった。そしていつも気になっている三角田のところにやってくる、僕の家はあぜ道の方を通らなければかなりの遠回りになるから、あぜ道を歩く。あぜ道の左は田んぼだから季節によっては田植えしたばかりの水がたまっており、稲や麦が育っている季節には風が少し吹くと怪しげな音もする。あぜ道の右側は農業用水路になっている。溝の中には蛙がたくさんいて、昼間は蛙釣りなどをして遊んだこともあるが、夜に光っているものがいると蛇の場合があるから気をつけろと何度も注意されていたものだった。もちろん夏には蛍が乱舞していた。
祖父はタヌキを見たのだろうか?祖父が言うには暗くて見たことはないが騙されたことが何度もあるという。祖父は大の酒好きだった。街に行って酒を飲み、三角田のところで道を踏み外してなんども溝に落ちてびしょびしょになって帰ってきたときに「今夜もタヌキに騙された」と言っていた。さもありなんと・・今は思う。酔っ払っているとあの場所はタヌキも狐も出るかもしれない。祖父は本当にタヌキに騙されたと思っていたのか、言い訳をしていたのかはわからないけれど、気分よく酔っていたのだろうなと思うと祖父が愛おしい。
タヌキというと淡路島はタヌキで知られた逸話があちこちにある。柴右衛門のタヌキの話はとても有名だが話の元祖はこちらという主張が多すぎてどこが本場なのかわからない。「柴右衛門 と 道頓堀中座のタヌキ」で検索してみてほしい。