先日、同級生から借りた「津名町史」をていねいに読み込んだ。
本編1500頁、資料編500頁もあるので読むのも大変。
昭和63年に作られたものだが、編纂した人たちの年代の関係だろうと
思うが文体が古い上に古文書関連のものも多くてどんどん読み進めると
言うものでもない。
こんな史実にも触れた。1067年からの4年間(平安時代)の淡路の国守が
中原氏だった。関係ある?ない?
20年の抜粋が掲載されていた。
いて、感動しながら読み進んだ。
短い文章の中にその日のことが巧く記述されていて、当時の生活の一端まで
伺うことができた。
関西汽船の関係者だったのか、毎日の汽船の運航についての記述は、当時の
仮屋、佐野、生穂、志筑、洲本を結んでいて、洲本以外では、伝馬船に乗り
、遠くからこちらに向かってくる本船とのタイミングを見計って沖合に繰り出し乗り
込んでいたのだった。
しかし、それでは大阪、神戸から洲本までの時間がかかりすぎるということで、
仮屋、佐野、生穂への寄港はなくなり、途中寄港は志筑だけとなっていた。
当時の船はほぼ450トンから500トン程度だったと記憶している。あの頃はそれでも
大きな船だと思っていたものだ。
志筑の関西汽船の関係者が、その日の天候によって本船が欠航したり、寄港しな
かったりと言うようなことを書き遺している。私は当時も伝馬船の運用の仕方に興味が
あってじっくり眺めていたので、昨日のことのように映像がよみがえってきたのだった。
いろんな記述に、そうそう・・なるほど、、そうだったな~・・などと読んでいたが、知ら
なかったことが一つあった。
米軍機が大阪湾に機雷を投下して、船の運航に危惧が出たこと。実際に機雷に
触れて沈没した船があることだ。 あの当時の米軍がやったことで、許せないことが
いっぱいある。なによりも、民間人殺戮を目的としたものは許せない。当時のことを
思い出し過ぎて・・ああ・・しんど・・という思いが全身を包んでいる。
志筑まで夜を徹して歩いた日のことまで思い出したからだ。