淡路のわが家は海の見える家だった。
福良町、志筑町として淡路3大の町だった。
海を玄関口とし、低い山に両側を挟まれU字型の町で、U字の一番奥に一段と高く一軒だけ海から見える家だった。
家の下には町一番大きなため池があり、ため池を挟んで西側にほぼ同じ高さの家があるが、そこからが街を一望できない。
我が家の場合は、街の80%は見渡せる景観があった。街だけでなく、大阪湾を見渡し、大阪市から紀伊半島まで見える。紀淡海峡に浮かぶ島々も見える。
戦時中は、観艦式が一望に見えた。駆逐艦、巡洋艦、戦艦、空母まで1列に並んで航行するさまは、圧倒されるばかりの壮観だった。
普段は、神戸港や大阪港に出入りする船舶で賑わう大阪湾だった。
近隣へは機帆船が主な役割を担っていた。今では機帆船はすっかり姿を消している。
毎日、家の庭に立ってこのような風景をつぶさに見ていた私は、外国へのあこがれを抱くようになっていた。
同じ風景を見ていても、何も感じない人もいれば、強烈なインパクトを与えられる人もいる。
本来(竈の灰までお前のもの)として、跡取りの立場にあった私だが、戦後と言う波によってその立場から追い出されることが明らかになったとき、外国に行きたいと願ったものだ。
しかし、沖縄に行くにもパスポートが必要だった当時、外国など夢の夢だった。
20歳の時、ブラジルのコチア産業組合が、日本全国から移民者募集を行い、全都道府県で選抜試験が行われることとなった。
兵庫県から応募したのは、性格な数字は分からないが、250名はくだらなかったと思う。
県庁において試験が行われた。
20名が合格し、船を形どったビルで一ヶ月間の講習を受けることとなった。
ブラジル語とか現地の事情などが毎日の講習内容だった。
講師は、自分ですべてを開拓して独立するなどは、死を選ぶようなものだ。日本と違って過激な条件下なのだから、すでに成功している人に気に入られ、婿にでもなればラッキーなのだが、全国から大勢の希望者が一挙に渡るのだから、厳しい競争になる。
この渡航は甘いものではないぞ、と厳しく言われたことを覚えている。
衣服、長靴、日常品、医薬品など3年間分持っていぅように、3年間は無報酬になる、渡航費は無料だが、3年間働いて、それを返すと言うわけだ。
当時計算しています、約20万円ほどだったかと思うが、祖母に頼んでも駄目だと厳しく言われて断念した。
それから海外初渡航まで25年を要した。