中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

超・短いエッセイ(2)「カイツブリ」

超短いエッセイ集』(2)「カイツブリ
 
 我が住んでいた家の下には大きな池があった。池を見下ろす場所に家があったという方が正しいかもしれない。
町にはいくつかの池があったが貯水量的には町一番の大きさだったのではないかと思っている。池の正式名は「三宅谷池」というが誰もが「じんじゃ池」と呼んでいた。たぶん「神蛇池」という意味でつけられていたと思っている。大雨のあと急坂に大蛇が通った後のような窪みができることから言われているようだと祖母が言っていたが、それも定かではない。
谷と言っても高い山ではなく小高い程度の山に挟まれた「谷」に人工的な土堤で堰き止めた農業用水用池である。
この池には思い出がいっぱい詰まっている。夏場には田圃(たんぼ)へ排水するために水位が大きく下がる。我が家の下の部分で池に向かって枝を伸ばしている松の木の下あたりに、僅かの砂地が現れる。
小学生1年生の時、大阪から私を見に来たのであろう父が2歳上の叔母(父の妹で11人兄弟の末の妹である)と私をその僅かな砂地で遊んでくれた。叔母に泳ぎを教えながら、私はタライに乗せられていた。砂地があるといっても池というのは浅瀬ではなく急角度で深くなっているものだ。
岸から10メートルぐらいだったのか20メートルぐらいだったのか全く記憶にないが、タライがひっくり返って私が溺れ大量の水を飲んでしまった。死ぬ寸前だったと父が言っていたことを憶えている。大量の水を吐いたことも覚えている。この時のことがきっかけとなって中耳炎になり、やがてとても厄介な真珠腫だとわかるまでに何十年とかかることになるが、毎日耳からの膿に悩まされ、難聴に苦しめられる一生の引き金となった日でもあった。
夏場にできるわずかな砂地に早朝降りてみると薄い線が見え、その線がなくなった地点を手で掘ると「カラス貝」を取ることができる。茹でて酢味噌などで食べるのだがあまりうまいものではなかった。しかし戦時中の食べ物不足の中ではタニシ、ドジョウなどとともに貴重なタンパク源だったのだと、いまは思っている。
夏場になると、池の5分の1ぐらいに菱の葉が広がる。熟したころを見計らって「菱の実」を採集して茹でて食べると栗に似た味がした。
池の水は我が家の風呂水でもあったので水が少なくなったとろろまで下りて行って水桶に汲み、一荷(水桶二つ)を担い棒で担いで急坂を家まで登るのは厳しい作業だった。
秋冬のシーズンは池の水が満杯なので汲みやすい。あのころはジャコがたくさん泳いでいた。釣り針を使わなくても釣り糸にミミズをくくっているだけで
食いついてくるからいくらでも釣れる。焼いて酢味噌に入れておくとおいしい。「ぼてじゃこ」とはこのような魚のことを言うのだろう。
夏場の昼になると近所の子供5、6人が泳ぎに集まってくる。私が初めて泳ぎを覚えたのは3年生ぐらいだったように思う。田圃への給水のために池の水を抜く「桶(ひ)」と呼ばれる水門があり、堤から5メートルほど離れたところに「ひ」を抜く際の縦棒がある。そこまで行けるように幅40センチ厚さ30センチほどの板が架けられている。子供たちはその板を外して、その上に乗って遊んでいたものである。あるとき、私もその板に乗せてもらって喜んでいたら、上級生が池の深みのところで板をくるくると転回させたために振り落とされ、私は必至の思いで板までたどり着いたのだったが、その時に初めて泳げたように思う。今思えば乱暴なことだが、あのころの大人たちは昼寝の最中で子供たちの見守りなんかしていない。それで当然の時代だった。注意されていたのは「ヒを抜いている日には、ヒに近づかないように。吸い込まれて溺れるから」ということだった。ヒが抜かれているかどうかは、ヒの棒の長さを見れば一目でわかるのだった。
夏休みの午前中は「コモ編み」だった。輸送中の一升瓶を守るために菰をかぶせるために必要なもので、たくさん編み上げれば同級生の正司君の家に持って行って買い取ってもらっていた。コモ編みは多くの家でやっていたと思っている。私は荒縄機を使い、稲わらを荒縄機の二つのラッパ管に交合に入れて荒縄をつくる作業もやらされていた。これは正司君の家できれいな縄に加工しなおしてから流通させていたようだ。わら草履作りもやった。上手だったと思う。
同級生たちがあまり経験してない作業としては、麦つきだと思う。石臼に麦を入れ、杵で麦をつくのだが、杵の付いた棒を、臼から3メートルほど離れたところで強く踏み込んで米つきバッタのように搗いていく。1時間ほどかかる退屈でしんどい作業だった。小、中学生の時のことだった。
さて、池の話に戻ろう。池にはいろんな動物がいたと思うが記憶に残っているのは「カイツブリ」なのだ。「か~いつぶり、かいつぶり、あっというたら
ひっこんだ・・♪♪」たぶん・・祖母が教えてくれたのだと思うがどうだったかわからない。カイツブリの親子がすいすいと泳いでいて、こちらの姿を見たり、声が聞こえると、サッと潜ってしまうので愛想がない鳥だった。可愛いと思う暇がないほど、サッと潜ってしまうのだった。
 夏場にはヤンマトンボをたくさん見かけた。信じられないほどのヤンマがいた。池の堤の雑草の中にはキリギリス、バッタ、カミキリ、カマキリなどなどがいっぱいいたものだった。今ではほとんどいないのではないかと思っている。
 最初に「私が住んでいた家」と書いた。そこには今も家がある。竈(かまど)の灰までお前のものだと言われてきたのだったが、戦後4年も経ってシベリア抑留から帰国した父は、舞鶴港に入港食後に舞鶴国立病院(元海軍病院)で胃がんの手術を受けて半年後に亡くなった。その瞬間に竈の灰とともに、わたしという人間も捨てられたのだったが、捨てられて悪いことばかりではない。捨てる神あれば拾う神もあって、私は今も現在である。丁度あとひと月で83歳を迎える。楽しく、素晴らしい人生だったと思っている。