昭和30年の2月は、私の人生で最悪のときであった。
自分の将来を考えたとき、私は(牧師として)人の役に立てるのだろうか。
もし、そうなれるとしても、これから卒業までの4年間をどうすれば乗り切れるのか。
授業料と食費は免除されているが、着替える服も肌着も歯ブラシさえ買う金が無くなりそうだ。
15歳から住込みで働きならら貯めた金はあと少ししか残っていない。
私は15歳以降は身内からは一切のお金を貰っていない。
15年ぶりでやっと見つけて再会を果たした母親からも小遣いなどは一銭も受け取らなかった。
それが私の生き方でもあった。
この先を考えると、やはり退学して働く以外には道がないと思えたので、勉学の道を捨てることにして大阪に戻った。
だけど、働く場所がない。
朝から、難波駅まで出て、御堂筋に沿って東側の道を何本も歩いて「店員募集」と貼り紙のある店を探し歩いた。
当時は、働く場所がなかった。現在なら、いくらで
もバイトが出来るだろうが。
身元保証を要求されても、誰にも頼めない。
父の兄弟たちにも決して頼んではいけないと、心に決めていた。
2月中、素うどん一杯が私の予算限度だった。
厳しい寒さの1ヶ月間、野宿して震え、民家の灯りの一つひとつに希望を持ち続け、うどん一杯で耐えた身体はガタガタになってしまっていた。
もう限界だ。野垂れ死にするかどうか。
ここまで来たら、最後の頼みとして、育ての母の所に転がり込めるのだが、既に2ヶ月も前に亡くなってしまった。
どうして私が身内の世話になることを避けるのかといえば、父の名誉を傷つけたくないからであった。
父は、祖母が18歳で生んだ長男で大切に育てられたのだろうが、先祖代々の大酒飲みで、酒を飲むと自己制御できなくなったようだ。
父の酒友達だったという人たちの父への評価は高く「良い人だった、親分肌で頼りになった」というが、身内では、どうしようもない奴だという刻印が押されていた。
私が身内に面倒をかければ(あの親の子)だと言われるだろう。
だからこそ、15歳から5年間頑張り続けたが、遂に野垂れ死に寸前になって、祖父母たちのいる家に帰ろうと思ったのだった。
(あと一回、続けます)