中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(44)私を守ってくれたのはだれなのか

 《隠岐の島への旅行》

十二月に日本海に浮かぶ隠岐の島に行った。同室の大野さんが

『冬休みにうちに来ないか』と誘って下さった。

『おくにはどこなの?』

日本海に浮かんでいる隠岐の島や』

『それは知らなかった。あの隠岐の島ですか』

『あのって、地図で見たことがある島だろう?違うんだよ。あれよりは本土寄りに小さな島が三つあって隠岐の島諸島っていうのだが、そのうちの中ノ島っていう所だよ』

『辺ぴな所なのですね』

『そうよ、辺ぴな所でね、電気は冬の場合、夜の五時から十一時までしか来ないんだよ』

『じゃあ、困りますね、どうやって暮らすのですか』

『だから来てみりゃ分かるっていうことさ、うまいものたっぷり食わしてあげるよ』

『うまいものですか。そりゃ楽しみですね』

『切符を買うときは、学割で〈周遊券〉を買うと安くなるからな。期間も一か月以上使えるし、東京から、米子駅まで来て、帰路は米子駅から山口のほうに回り、広島、岡山、神戸、大阪、東京とめぐるのが周遊券だ。米子駅から境港駅まで来ると隠岐の島行の連絡船が出ているが、冬場は海が荒れるから米子駅で確認をとらなきゃだめだよ。中ノ島の「菱浦港」で下船して、大野といえば家を教えてくれるよ』

『わかりました、考えてみます』と、答えた。

周遊券は途中下車が自由だから、どの駅に降りて観光したっていいんだよ』と付け加えてくれた。

そのころ僕は大問題を抱えて苦しんでいたのだ。大野さんのすべてを見ていて、やはり自分は若いな、甘いなと気付かされていた。十五歳から社会に出て、なんでも分かっている気になっていたが、なにもかも初めてのことばかりだ。何も知らなかった、わかっていなかったのだ。それが分かったということが、一つの財産になった。もちろんそれらのすべてが教養となって身についていたが、肝心のものがなくなりつつあった。

ぼくはだれからも、お金を借りたことはない。身内からも絶対に借りない。父が、むかし大阪に出て働いていた真知子叔母と知代叔母の所に行って、なんども金を無心したようで、それが父の評判を落としている最大の理由でもある。その息子の私が誰かに無心すれば「やっぱりあの親あって、この子ありだ」と言われるだろう。ぼくは、だれにも金を借りたりしないとおもったのだった。

父のことを悪く言われたくない、父はとてもいい人なのに、妹にわずかの金を無心したのと、酒癖が悪かったための悪評判でかわいそうな人だった。すべて家族内のことなのだ。ぼくは決して金を借りたりしないぞと、固く心に決めていた。先祖から続いているという大酒飲みも、ぼくの代できっぱり絶ってやると誓っていた。

何とかやっていけると考えていた計算に大きな間違いがあった。もともと少なかった貯金は残り少なくなってきていた。授業料も寮費も無料にして頂いているが、四季に着るもの、歯磨き、歯ブラシから、肌着、靴、日用品などで、昨年の秋からの一年間で大きく減ってしまっていた。それまで使ったこともない金額をこの一年で遣ったことになるのだなと、気が滅入っていた。

このままでは、次年度からの三年間が乗り越えられそうもない。事情をはなして援助してくださるかもと思えるのは、『いつまでも見守っているよ』と言ってくれた優子叔母だけだ。優子叔母は、ぼくにとっては母親だ。それに絶対に父の悪口は言わないことを知っている。

それならば、大野さんの誘いに乗って隠岐の島へ行ってみようか、その間の学校の食費はかからないし、大阪に立ち寄って神学校にいる事情を話し、少しでもいいから三年間の援助をお願いしてみよう、と思った。ほかに思い当たる人はいなかった。

近くの農場へアルバイトに行くことにした。学校の作業よりおおく稼げるので、アルバイトをえらぶ生徒がいて、教えてくれたのだ。学校へは差額のお金を渡してポイントしてもらうのだ。

この辺りは「高倉大根」の産地で、都内での人気もたかいらしい。大根をひき抜くぐらいなら簡単だとおもって出むくと大まちがいだった。大根は八十センチを超える長さで、そのうえに土が凍っていて引き抜くのに力がいる。まっすぐに引き抜かないと折れてしまう。こりゃしんどいぞ、日給が高いはずだなとまたひとつ学ぶ。

ひき抜き作業が終わると川で洗うのだが、これもきびしい作業だったが、アルバイトを続けて、隠岐の島へ行くための旅費を稼ぎだした。周遊券というのは比較的安く、とても使い勝手の良いものだと言うことを初めて知ったし、学校法人なので学割が使えることも僕にとっては最初の経験だった。

大野さんは一足先に帰っていった。ぼくはアルバイトのために時期をずらして出発した。あちこちの駅に降りて観光することも考えたが、時刻表と相談しながら、よく知られた地名の駅に降り立ち、駅周辺を一時間ほど散策して次の列車に乗る方法をとった。観光とは言えないが、それぞれの歴史がわかるような気がしたものだ。それと、列車だと宿泊費もいらないしと。時刻表というものは、使いようですごく役立つ。この旅で、時刻表の使い方をマスターした。

ようやく米子駅に着いてから、船の確認をすると、今日は海が荒れるから連絡船は出ないという。さあ困った、寒いのに野宿はできない。

この辺りにキリスト教会はありませんかと、尋ねると教えてくださったので、道順通りに行くと教会があった。看板を見ると聞いたこともない教派だった。メソジスト派なら教団とほとんど変わらない。例えば同志社大学関西学院大学の神学部を出て、日本基督教団やメソジスト教派の牧師になる人もいる。しかし、全く知らない教派の教会に入るのにためらったが、背に腹は代えられない。

扉を開けると牧師がおられたので、自己紹介をして、連絡船の欠航のことを述べ、どんな作業でも致しますから一晩泊めていただけませんかと、お願いした。

『神学生ですか、いいですよ、お泊りください。欠航が続くこともありますから、何日でもお泊りください。では、早速ですが薪割りを手伝っていただけますか?これからどんどん寒くなるのでね、薪をためておかないと』と。

教会の裏庭で、薪割り作業をしていたようだったので、それを手伝う。これも経験がないとできないが僕には経験があるので、役に立った。牧師は非常に喜んでくださって、今夜は集会があるので出てみませんかと誘って下さった。

礼拝堂には、過剰な飾りつけもなくシンプルで好感が持てた。一つだけ大きな違いを感じた。賛美歌が教団と違うのは不思議ではなかったが、だれかがお祈りをしている最中に信者が大きな声で叫ぶのには違和感があった。ハレルヤ教会と言って、こういうものがあると先輩たちから聞いていたので、こういうことかとおもった。信者が興奮して思わず「ハレルヤ」と叫ぶのは悪いことじゃないが、教団の教会では一度も経験したことがない。

牧師は僕をみなさんに紹介してくださり、信者たちとしばらく歓談した。隠岐の島に行かれたら面白い経験をたくさんされるでしょう、楽しみに行ってきてくださいといわれた。あくる朝、今日は船が出るというので、お礼を言っておいとました。